怒れる自分が恐らく原初の俺なのだろうな

人間の感情は複雑なものだが、それは素直に湧き上がる感情をぶつけることが人間関係を悪化させると考えて理性で感情をコントロールしようとするからで、女優のように表情を完璧に制御できるとまた世界は違うかもだが、俺はかなり顔に出る方だ。それでも、結構怒りっぽい自分があって、それを必死で抑え込んでいる時に「あっ、この怒ってるのって多分素直な自分なんだな」って気づくんだ。
小さい頃に姉と二人の子供部屋で喧嘩して殴ったことがあるらしく、殴ったことや喧嘩の経緯は覚えていないが殴られた姉が泣いて親父に「殴られた」と告げ口したら親父が「ひーちゃんを殴ったやと!?」と顔を真赤にして喧嘩の経緯は無しに思いっきりぶん殴られたことを覚えていて、殴ったことを怒るのに殴って返す矛盾とその威力の恐ろしさ、そしてそれよりもっと怖かったのが子供部屋で小さな諍いでも有ると姉が嘘泣きをして親父に泣きつきその度に思いっきりぶん殴られる恐怖で子供部屋では姉の言いなりだったこと、最悪だったのは色々の用事でバス代やら外食費など親にいくらいると聞かれて嘘をついて貯金箱に貯めたお金を姉がのぞき見て「お父さんにバラされたくなかったら半分よこし!」と大きな声でいったものだから部屋の外まで声が漏れて親父が聞きつけ全額取り上げられたことなどだった。
まあ、最近では優しい爺ちゃんと化した親父であるが、俺の小さい頃は爺ちゃん(親父の親父)が優しくて親父は怖かった。そして母と姉が何かあると親父を焚き付けて怒らせるということを遊びのようにして俺をいじめているという感覚すらあった。
それで家以外では学校なわけだが、低学年のときに言い合いで喧嘩になって、負けた相手が泣きながらぐるぐるパンチで迫ってきたので正当防衛でグーパンチしたのだが、俺は家で親父に殴られて我慢強いので泣かず、相手は泣きじゃくったので先生から俺が一方的に悪いことにされて、そのとき受けたのが「人を殴ったりしないのがミヤザワくんの良いところだと先生は思っていたのに」と言われ、先生からしたら勉強ができるとかその他色々のことは全て良いところではなく殴らないことが俺の良いところなのだなと思って、その誓いは先生のいなくなった中学高校まで続き、物を取られて犯人がわかっても喧嘩になって先に殴られても許せないことがあっても手だけは出さなかった。
その鬱屈がやがて他人に殺意を覚えるほどに自分の中で膨れ上がっていく。殺すよりは殴って済むなら俺は殴ったほうが良いと近頃では考えている。ただ、ハタチを超えると殴られた相手が警察を呼んで殴ったことが第三者から証言されると警察に留置されて書類に指紋を押して帰ってこないといけなくなった。面倒だ。中学高校でもっと殴り合いを目一杯やっておきたかったが、先の理由で殴らないのがいいところなので代わりにゲームの中で殴った。ストリートファイターなんてそんなに面白いゲームだと思わないという意見も分かるのだが、喧嘩をした時に言い合いになって決着はゲームで付けるという謎のルールが俺にはあった。あるいは汗を流すスポーツだとそれらは昇華された思いかも知れないが、コンピュータで絵が出てコントローラの操作の手順だけで勝敗が決まるので人間関係は悪化していたようにすら振り返る。
今も、特にパソコンに向かって字を打つ時は有益な情報を共有しようとかでなく、口喧嘩をしているときのような怒りが文字打ちの原動力であり、モニタでなく相手の顔が目の前にあったら間違いなく手が動くような心情だ。これでは怒りは収まらない悪循環のままだ。

事実は小説より奇なりとは良く言ったもので俺の経験はまだ記せていない

恐らくだが俺は多重人格というやつで、このブログを綴っているのはゲーム漬けで遊び人の可愛そうな白痴の金持ちの俺ではなく通勤電車で森博嗣の小説を読んでいた新しい人格の俺である。その人格が出来たのは19歳の頃だったはずだ。このブログを書いている俺の22歳からの素行を知っている人からしたら別人格なわけだから、信じられないだろうというか俺自身が記憶を辿っても何故そういう心情だったか計りかねる純愛小説のような恋愛観を持っていた頃が有ったはずだ。一人の女性を愛しぬくことが至上の幸福であろうと信じ込もうとしていたというか、女性がどういう風に男性に好意を持つかというのは一般論的に少女漫画とかテレビドラマや映画俳優のような、既に知っているキャラと似ていることを勘違いしてその人だと思ってしまうというようなケースと、空想以外で行くと幼馴染とか親兄弟のごとくある程度に閉鎖された人間関係の中でその人しかいなかったとうケースも有るだろう。もちろん、それらは千差万別で一般論には嵌らないという人もいるだろうが、19歳の俺は恋愛に長けた年上の女性から見たらチョロいイチコロで落とせる男だったのだ。しかし、その恋愛はデートをしてみた後に携帯電話の電源を切れば終わる遊びの恋だったろう。だが、遊ばれた方にはそれこそが純愛を捧げるただひとりと思った相手と突然連絡が取れなくなるという交通事故のような出来事だったわけで、到底現実として受け入れられる理由が見つからなかった。ちょうど山崎まさよしワンモアタイムのように街をふらついて探し回り、かからない電話を何度もかけて友人を当たり、どうして良いか分からず部屋で天井を眺めてもう死んでしまいたいと思った時に、俺はパソコンのブート領域を書き換えて1台のマシンをウインドウズでもリナックスでも切り替えて使える技術を思い出し、別人として人生を自殺の代わりに継続できないかと思った。
そうして出来上がったのが高校の頃に女性向けの恋愛小説で読んだ女性が意中の人と出会う前にフラれたというサイテー男の人格である。今の俺はそのサイテー男と森博嗣犀川助教授の成分で出来ている。犀川助教授だったこともあるが、再川遊びはいつしか終わって無意識的にサイテー男に人格が統一されつつ有るのだ。サイテー男が何故サイテーかと言うと恋愛小説の主人公をフッたからサイテーなのだが、その女性をフッても変わりがいくらでもいるくらいモテモテなのだ。振られた俺は純愛を信じ込もうとしてしていたというか、信じ込んでいたが、遊ばれたのかも知れないと悟り始めた時、仕返しとして女遊びをしまくってみたいというか、ひとりでいいはずなのに何故かモテモテを目指し始めたのであった。そしてモテモテを目指しての立ち振舞はヒロインをフッてその他大勢の女の子にちょっかいを出しつつ、誰が一番大事かという問題になると麻雀をしたりドライブをしたりと男の遊びに夢中で女は遊びで趣味が本分というようなキャラを演じることであった。
このブログは実名なので、その演じているうちに中心人格になってしまった自称モテモテ男のカネを使った女遊び遍歴はまあ語らずに推し量って欲しいところなのでは有るが、そういう遊び方をしている間に男の友達も少しずつ付き合い方が変わり、もしかして昔の付き合いっていじめられていたのに鈍感だった、金づるにされているのに鈍感だったというか、どう頑張っても元の人間関係が求めていたものは寂しさの穴埋めというだけで、ひとりと自分で向き合って自分の利になることを求め始めると、得する関係なんてひとつも無いように思え始めた時に例外だなと思ったのが匿名で自分を叩いていたネットの誰かなんだよな。
それは匿名を利用した知り合いかもしれないし、目立っていた俺を陰から見ていた俺は知らないけど少なくとも相手から見たら俺を知っていることは間違いない書き込みで、批判は痛烈だったがそれを客観視して受け入れることで今の自分が有る。
今日は昼飯を食った後にベッドで天井を見ながら「死にてー」と思っていたが、こうして文字を打っていると何故死にたいくらいの辛い気持ちだったかまでは思い出せないプチ多重人格はまだ続いている。だが、少なくともここまで書いた人格は今までネットに書き込むことなどしない読み手のネットからは隠された人格であったはずだ。今、冷静に読み返してこんな文章は消してしまうべきかと考えているが、死んでしまうよりは書き込んで俺の体験がどう変化するか試してみたい。何も変わらないかも知れないし、もし今より悪くなればそれから死んでも死ぬのは遅くないし、良くなるかも知れない。
ただ、何を伝えたいかと言うと俺は印象的な出来事は鮮明に動画のように覚えているが、気にしていないことはスグに忘れてしまい、忘れたことにしているわけでなく本当に思い出せないのだ。それが俺が本当に多重人格と呼べるほど人と違う精神を持っているのかも定かではないし、思い出そうと頑張って思い出すと何故そういう状況に陥ったか口頭や文面では説明のし辛い複雑で意図的な悪意の策にはまっていた苦しさと、それを逆転に至らせる確固とした証拠が示せないので、あれはどういう時に何を思って言った言葉かということまで分からずに言った言わないで確かに言った、だけど本意ではないことに有言実行を示す愚かさにはハマりたくないという気持ちがあるんだよな。とりあえず、苦しい。しんどい。病んでる。
これ投稿したらコーラ飲んでタバコ吸ってくる。俺は親に逆らってひとり暮らしを始めたが、ひとり暮らしの生活費を稼ぐために働くよりかは親が生きているうちに面倒見てくれる分は目一杯見てもらおうと甘えているので家にいる時は子供の時と変わらない格好で幼稚に振る舞っている節が有り、ときどき文章もそのままの調子で書く。書いている体は同じ人なのだが、とっちらかっているのは恐らく俺が多重人格な影響もあるのだろう。病名は多重人格ではないが。頑張ってひとりにまとめたい。死にたいと思った俺の続きを受け持って死なないように考え直させる必要があるのだ。死ぬくらいなら別人にと逃げさせないで捕まえるのが難しい。女に振られたくらいで死ぬなよ、と文字にして残しておいてやろう。まあ、純愛が命題なら別れが死で辻褄としては合っているのかもしれんがな。

理不尽ってのはどちら側の理が尽きないのだろうか

若い頃のほうが理不尽に思うことは多かった。理不尽とは辞書をひくと「道理に外れていること」だが、字面どおりに読むと「理が尽きない」ということ「筋が通っていない」と言い換えたほうが良いだろうか。これは、受けての問題である。小学校の時は学校で勉強を習い、社会科で平等をならって道徳で守るべき道をならう。そうすると家庭に返ってお姉ちゃんのほうがお小遣いが多いのが不平等だとか、誰かがゲームでズルをするのが良くないとか、習ったことを現実に当てはめてみると自分の思っている筋とは外れていると怒ったりする。
しかし、世の中にもし真理というものがあるならば全ては真理に沿って進行していることになる。仏教で言う因果のようなものだ。悪いことをする人がいても、その人が悪霊に取り憑かれて悪いことをした、みたいな理解でなく生い立ちに於いて誰かから悪いことをされてそれを覚えてしまって真似をしたとか、ずっと辿っていくと本当の原因が見えてくる。しかしまあ、人が一生生きるくらいの経験量では世界のすべてを理にかなうところまで知り尽くすことなど出来ないだろう。お釈迦様なら出来たのかもだが、その後も歴史は仏法に沿って動き続けているとはちょっと考えにくい。世の中にはひょっとすると真理がある。そして物事はその真理に沿って動いている。だが、人が理不尽という言葉を口にする時は相手が道理から外れていると非難する格好で使いつつも、自分がなにかの理を物理とか道理とか心理とか論理とか生理とか数理とか、とにかく自分が信じている「これで全て自分の意のままである」と思っている理から外れたことが理不尽なのだ。
繰り返すが、恐らく世界は真理に沿って動いている。だから自分の思う理ではないことが起こったとしたら、外れているのは自分のほう。とても悔しいことだが、それが現実なのだ。ではそれまでの理とは現実ではなくて何なのだと言うと理想である。思っている理と外れたことを理不尽と言うなら、それは「理想と違った」ということでしかない。俺みたいに人生なんて意味がないゲームでもして暇潰すかって人間よりは理想に燃えている方がいくぶんマシかも知れないが、その理想は本当に実現した時に全ての人がくまなく得をするものなのか。
相手が損する理想なら、そんなものいらない、邪魔してやろうという人だって現れるだろう。そのたびに自分が主人公だと思っていると「どうして邪魔されるんだろう、手伝ってくれないんだろう、喜んでくれないんだろう」と思ってきたことが恥ずかしいくらいに、自分の理想が既に今何かで得をしている人を損させる理想なんだよな。もちろん、得をする人がいるなら協力を得て団体戦をすることも出来るかも知れない。しかし、俺の理想は誰得であるのだろうな。誰も得をしない理想なら、燃えているよりひとりで部屋でテレビゲームしてくれるほうがマシだって考えることも出来るわけで。それが案外テレビゲームの用途として理にかなっているんだよなぁ。
一方で、俺には邪魔をする相手が現れてそれと戦い打ち勝ちたいというバトル願望があることも認めないといけない。何かやりたいことがあって協力者や敵対者が出たというわけでなく、わけなくゲームの腕を磨いて索敵するとどこにも敵が見つからない。けど見えない所からライフルで打たれて突然死んだりするわけでもない。平和なんだよな。そしてこの平和がどんな理によってもたらされているかと言うと、身に受けたと思える理不尽の理想とのズレは小さなもので、案外と理想的な生活かもしれないなと思い直すわけだ。


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