今日のカプエス2(キムで小足立ち小K鳳凰脚の練習)

長らくトレモをせずにコンピュータ戦で練習していた。

実践感覚を無くさないように、毎日1回か2回30分くらいのウォーミング。

今日は休日なのもあって「新婚さんいらっしゃい!」や「アタック25」を見ていたが、ふとキムのコンボに納得がいっていなくて練習を始めた。

リュウの小足払い2回真空波動拳やコパコパ中足真空波動拳サガットの小P肘肘中足レイドなど、持ちキャラにしていたキャラは実用的なコンボは全て実戦に組み込めるまで練習してから対戦に臨んでいたけど、キムはどうしても小足2回から立ち小K鳳凰脚がモノにならず、そのままでもキムを使う人は多いのだけど、なんか変な完璧主義があってコンボが全てモノにならないキムは使いたくないみたいな気持ちがあった。

近頃では全体的にゆるくなって、使いこなせないキャラでも平気で遊べて、キムも出来ることで充分勝てて面白いのだけど、なんかスイッチが入った。

10分やって1回出た。しゃがみ小キックもしくは小足払い略して小足はキャンセル可能なので小足から竜巻コマンドで小キックを押すと小足キャンセル半月斬になるのだが、必殺技キャンセル可能時間を過ぎても小足連打の連打キャンセル可能時間は続いていて、小足キャンセル半月斬にならない小足からの竜巻入力小キックは可能で、そこから小キックを離してしまうとボタン離し必殺技入力で立ち小キック出際キャンセル半月斬が出てしまうのだが、これは小キックボタン押しっぱなしで回避でき、小キックを押したままレバー入力を続けて中キックボタンでレベル2鳳凰脚を出す。

つまりレバー下小K斜め後ろ後ろ小Kを半月斬にならない程度遅く繋がる速さで小キック押しっぱなしヨガフレ中キック。

これだけのことなのだが、なかなか出来ない。しかし10分に1回出来るなら、毎日10分練習すればそのうちモノには成りそうな気がする。リュウのコンボとか1時間でも2時間でも平気でやっていたこともあるが、そこまで入れ込み過ぎて出来ても得られるものは少ない。右手の小キック連打の最後の小キック押しっぱなし中キックだけでも意識していればいつでも練習できそうだ。

稼働時はもっと大きな台のレバーで力技で立ち小キックを押してから手首と腕に力を入れて高速でガチャって鳳凰脚を入力できていた。しかし、その様は力で乱暴に台を揺すっているように傍から見えたらしく、せっかく凄いコンボを入れているのにゲーセンで台を通してみるのは数人、周りの他のゲームをやっている人からはレバガチャの音で乱暴で不器用と思われていたようだ。残念なことだが。

だから今は小振りな台のファイティングスティックミニで静音で精密に指と手首で入力する練習をしている。そうすると以前出来ていたことが出来なくてもどかしさがあるが、今日は10分やってみて1回は出来た。立ち小キックを押してから全部入れる方の方式では1回も出来なかった。だから新しい方式で確実に決められるまでやるか、そういう枝葉末節のコマンド技に拘らずゲームの全体像を捉えた戦略面を強化するか、そのへんが考えどころ。

コンボの精度が高くてもそこに持ち込むまでの駆け引きが下手だと、コンボの威力を中心に小技を当てに行く以外のダメージのとり方が上達しにくい。俺が中学の時にチャリンコガキだったゲーセン後輩の何人かは自分たちでスーパーコンボ無しルールで通常技での減らし合いで対戦しており、さらにブランカサガットは強パンチボタンを押しているだけなのでそれで勝ったからと言って評価はしない等の独自のガラパゴス進化を遂げていた。強いキャラで威力の高いコンボを練習して何でもありで勝ったは勝ったという感じではなく、純粋にゲーム中での格闘技を楽しんでいる。

コアコア鳳凰脚に毎日10分を費やすよりはバーチャファイターとかギルティギアも嗜んで、付き合いの幅を広げたほうが面白いかなとも思う。Tポイントの有効期限で何となく買ったファイナルファンタジーXIIが多分もうすぐ届くのでそれを始めるかもしれない。新世界樹の迷宮も鬱展開な終盤を見届けたい。テレビも見たい。漫画も読みたい。

それで、キムのコンボはまあ1週間くらいは取り組んでみて、精度が上がるならそのまま実戦投入して、コンピュータ戦の中で自然に組み込めるパターンのひとつにしよう。

今日が取り入れると決めて練習を始めた日なので覚書として記録しておく。

プロスポーツ選手の引退後を参考にしようと思った

講談社現代ビジネスと東洋経済オンラインの2誌でプロスポーツ選手の引退後についての記事を読んだ。

現在俺はプロゲーマーではないが、会社員のプログラマーという職を事実上休職していてブログを書いて日課としてカプエス2をやっている。学生時代に資格を取り一度はプログラマーになったがその道に迷いがあり、ゲームは続けているがそれが収入になるわけではない。ゲームで食う道というのは近頃出来たばかりで未だそれには有附ておらず、プログラマーに復職する以外の道は完全に前人未到である。

これは恐らくプロゲーマーとして職につけている人でも同じことで、いつかは引退の日が来てその後のキャリアは今から考えておくべきだろう。

そんな時に何となく求人情報を眺めるよりはプロスポーツ選手の引退後が前例として参考になるのではないかと考えた。講談社の方はプロ野球を引退した選手は年を食っても社会人1年生としてゼロからキャリアを積んでゆくという道が、東洋経済に置いては厳しい競争を勝ち抜いたプロの資質は優秀な潜在能力であるはずで社会のほうがその力をいかにして引き出すかということを考えるのが課題であるという落とし所であった。

それを読んで俺はどうするかというと、当面の暮らしとしては親父の自営業を邪魔する格好で生活を立てながら、親父に甘えられないようになるこの先のことを計画しなければならない。元々、就職した時はもう親に甘えるつもりはなかったが自殺未遂から病気になり野垂れ死ぬ代わりに親に引き取られた2度目の人生。ときどき勤めていた時代のコネで仕事をもらって手にしたお給料は趣味に使いながら数年前からゲーマーとしてプログラマーとしてでなく、あるかもしれない新しい生き方のために準備を始めている。

ゲームは「ながら」で充分続けられる。ただし、講談社のようにゲームは置いておいてゼロから何かを始めるならともかく、東洋経済のようにゲームの強さが資質に成りうると考えたいなら、せめてゲームはもっと上達してからそう考えないといけないと目標をあらためた。

スポーツより運動量は格段に少なく、40歳でも充分戦える。あるいは戦力外に分類されるのかもしれないが、そうなると他の道を余儀なくされるスポーツと違って、ゲームは電気が通っていてテレビとゲーム機さえあれば他者から与えられたリミットでやめざるを得なくなるということがない。

出来てしまうがゆえにズルズルと悪い方へ行かないよう、自分を律して続けたい。

久しぶりの新世界樹の迷宮(やっぱ新は新だった)

不思議な事があるもので、途中で飽きたと思ったゲームを続きから再開するとまるで今の自分の心の映し鏡であると思うようなシナリオが展開される。このメンタルマジックの理屈は恐らくゲームはゲームとしてシナリオは添え物と思っている俺でもゲームの展開が無意識的に考え方に刷り込まれていて、飽きたと思ったポイントは自分の思想とかけ離れているポイント、ゲームをしないで過ごしている間に意識がそのシナリオの分岐などの争点と同じところまで醸成されたということなのだろうな。

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そんなわけで人間対コンピュータのひと幕が展開されるネタバレ御免のスクショ。

ゲームなので暴走した機械を剣と魔法でやっつけるだけの展開ではあるが、物語の中の登場人物のやり取りには多くの民を救うため犠牲にされた少数民がちょうど登場人物の仲間の親兄弟であった、という話から数の大小で人の命を計って良いか、良策はないものかという葛藤に。人を守るために取り敢えず目先の機械と化物をやっつける。

合理を不合理で倒すには暴力という手はある。多数と少数に分かれて少数が犠牲になるのが目に見えているときに少数がそのまま自決を受け入れるより多数を相手取って戦うのも当然の合理だ。これをもうちょっと論理で何とか出来ないものか。

多数に少数で勝つためには数を2元にして、例えば質という新しい軸で持って少数の方が良質である、個数で見ると幅に取った場合は多数が勝つが質という高さが加わることで幅と高さを掛けた面積のようなものでは少数が勝つという考え方もある。

結局の所、コンピュータには大小の比較しか出来ないのかも知れないが、人間の質を1元で捉えることは難しく、人ひとりの内的な複雑さというのがコンピュータを超えているという路線で持ってすれば多数か少数かどちらにつけ計測不能であるという落とし所には持っていけるよな。1元で表すと多数も少数もゼロで有る場合と少数の方が質で勝っている場合と双方ともに無限である場合に等式が成り立つ。この場合の無限は数学的な無限大の意味するところでなくともコンピュータの全ての情報量を持っても表しきれない量であれば判断不能に至らせるに十分である。

まあ、現状の日本は多数決が重んじられるので個数の勝利は正義であるから、少数派はそれなりに生き残りのための伝達方法を生み出している最中なのだろうな。仏教にハマる人がいるのも釈迦の教えが優れているがそれを理解できる人は少なく、世の中は多数決であるから小乗と大乗に分かれて大乗が勝っているようだが、命の尊さはただ漫然と生きているということでなく精神面での充足の到達点である悟りを得ることだと考えれば、なるほど少数派も納得の小乗仏教になる。

まあ、世界樹の迷宮が新世界樹の迷宮になって何が変わったのって、流してしまわずに残りの話もゆっくり味わって自分のペースで消化していきたい。

 

追記:2018/10/21

生存のために多数決を取られた場合の少数派の意見として少数の方が優位であるとか等価であるというのは話の建前で、本質的には情感に訴えて憐れみを買っているというのがグングニル起動をめぐるやり取りだろうという指摘が。

また、比較して等価であるというのは論理的には少数優位であるが、リッキィの反省は比較をしたという点についてである。比較した結果についての反省でなく、比較そのものを回避せねばならないという倫理観。比較はつまり二者択一の切り捨てであり、両者を生かす選択肢を極限まで考える。

しかし、決断にはタイムリミットがある場合もある。過去においてはそれしか選択がなかったとして、今後は猶予がある以上は互いを尊重すべきといったこところか。


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