資本主義経済と工業化社会における本当のシェア

小難しいタイトルを付けてしまったが、簡単な話。

貧しい人と裕福な人がいて、公平を理由に裕福な人から貧しい人に分けるのでなく、全ての持ち物を1点ものでなく工業化で同等品として、貧しいものにもそれを持てるようにする社会。

高度経済成長期には消費は美徳とされ、メディアで流行が作られて皆が流行を追って狭い家に置き場の無くなったものを捨てて新しいものに買い替えた。

それに皆が飽きた時に整腸はゆるやかになり古本屋ブックオフは大企業となった。

もう、作らなくてもあり物を皆で交換するだけで充分に豊かなのではないかと思える。

ただし、そうなった社会の中で持ち物の良し悪しを比べるような不公平があるのなら、一度捨てられたものの中から良いものを選び取って、同じものを生産して分配すれば良いではないか。

過去の俺は確かに個性の時代において他人と持ち物で差別化することを好んでいた。皆が持つなら自分は違うものを持ちたいという欲求があった。そうした先に、違うものを持っていると言うだけで、俺の持ち物のほうに周りが興味を持ち、交換したり取り上げられたりしてきた。恨んでいないと行ったら嘘になる。だが、取り返してもどこか虚しい。寂しいのはその持ち物が奪われたことより、奪ってやろうとして友達を持ち物のために裏切る精神性なのだ。

それから、俺はモノを選ぶ時に充分に流行っていて、たくさん量産されているものを選ぶようになった。そうすれば、他のものが欲しがっても同等品を替えば問題ないからだ。同じものを持つほうが幸せなのだ。

それでも、まだまだすれ違いは起こっている。俺が何かを持つと、俺と同じものを持つと同じ者同士で差が無くなったら負けるのが怖いという発想で、相手から違うものを選ぶようになったのだ。被せてくるのは強いやつだ。強いものと持ち物が被るというのは辛いこともある。

そのへんは、最早気の持ちようというやつになってくるのだろうな。

ポケモンカードを始めることにした

今日はポケモンカードvスタートデッキの発売日。

発売日は事前情報で知っていて、取扱店をネットで探し行ってみるとことごとく「もう取扱してないんですよねー」と。人気無いのか?ネットで買おうとすると定価に送料を上乗せした値段で売られていたりして、特に有名なアマゾン、楽天、価格ドットコムなどでは納得の行く値段で売られているものが見つからない。古くからの事情通の友人に電話して、何とか定価で手に出来た。

ポケモンカードをしたことが無いわけではない。MTGの大会で海外遠征した大橋くんから英語版のPOKEMONをお土産にもらい、ロケット団ゴーストとジュゴンが入ったとても強いデッキをもらったのだが、なにせ当時は20歳。同級生とかを当たっても相手してくれる人など居なかった。弟に全部あげた。それから10年経って弟の東京への荷物からあぶれて家にあるカードの箱を見てみると、トレードでとてもつまらないカードに交換して、全て取られてしまったのだろうと推測した。

MTGを10年ひとりで研究して分かったことだが、ひとりで煮詰めると時間はかかる。だからといって安易にゲームを人から教わろうとすると授業料はクソ高い。麻雀が好例である。やくざ者はそれを日銭に食っているわけで、正しいことなど滅多に教えてはくれないものだ。

おもちゃというのは寂しい時にひとりで遊ぶと想像上ではあるが友達のようなもので、ゲームの勝敗でどちらが勝ったどんなカードが強いキャラが強いとか、そういうことでなく、家でひとりで眺めて寂しさを癒やしてくれるものこそが至上のおもちゃであり、そういうところで自分の寂しさと向き合って、その寂しさが他人の甘い言葉でなく自分の好きなもので癒やされる時にそのおもちゃに価値はある。

いっそポケモンカードも今からでもひとりででも始めてみようと思ったのだ。ポケモンが発売された時に任天堂の新作として期待していたが、誰にも相手にされずひとりで遊んだ。その後アニメ化などでマネタイズされて大ヒットゲームになるのだが、もともと売れないゲームクリエイターの作った虫取り遊びと簡単なRPGを組み合わせたありふれたゲームだった。

ポケモンが流行った時に俺は先からやっていたのにと意地を張って、寂しい思いをした。最初にポケモンをやろうと誘ったのに乗ってくれなかった相手がクルマのキーホルダーにピカピカ点滅するピカチュウのおもちゃを吊っていて取られたような寂しい気持ちになったのだ。

売れるとか流行るというのは商売としては結構なことだろうが、ひとり遊びを好む人間からは煩わしいときもある。昔からいつも同じ色の服を来ている女性が「自分の好きな色が流行色にされると翌年には流行遅れに思われるのが嫌だ」という話をしていた。それから、その人は流行遅れになる歳に今年の流行色を知ってオシャレになって結婚した。久しぶりに会うと地味な色を来ていた。テレビで流行りのドラマの脇役とちょうどよく似た服だった。

ポケモンカードは流行を過ぎ、取扱店舗も減ったが既に流行を超えた普遍性を持っている。そういえばトレカの相手は大橋くん以外に居なかったが、MTG関係の先輩と飲んだ時にゲームボーイカラーポケモンカードGBはよく遊んだという話になって、先輩もさらに上のヲタ先輩とふたりで全カード集めるくらいまで遊んだよという話をした。

自分の世界が流行に選ばれることでグチャグチャに踏み荒らされるのは辛いが、流行というのは上手く乗っかると見ず知らずの人がたくさんいる広い世界で新しい人との接点が生まれる確率が飛躍的に高くなる。若い時は特定のロックバンドが好きでも、年を食うとその次代のヒットチャートのナンバーワンが世代を彩る共有物になったりするものだ。

若い内から既にそうだった、という人は恐らく幸福なのだろう。俺もいつまでもすねていないで新しいものと呼んでいいのか、新版のポケモンカードを部屋にずっと置きたい。

トレカの「レアカードが高い」と言う人にも俺は腹を立てている

俺はマジックザギャザリングを趣味のひとつとしているが、ここ10年ひとり考えている。

カードショップやおもちゃ屋などで遊んでいたら店がカードをパックでなく剥いて1枚ずつ売り出して、その価格設定が封入されたパックの値段を超えることもしばし、高いもので遊んでいるというレッテルを貼られた。

もともと1パック15枚360円ほどで、それでも高いという人もいるのだが、流行る前はおもちゃ屋の不良在庫でゴミのように扱われているカードゲームだった。

それでもカードが高くなるのは、ディープマジックの翻訳本が日本に入ってきた頃に雑多なカードの数々にはデュエル中にカードの相互関係をどのように変化させるかという「カードの経済性」と翻訳された費用対効果、つまりマナコストとデュエルでの作用の比較がなされて、4マナ3/3の丘巨人よりそれを1枚と1マナで破壊できる稲妻のほうが3マナ分の経済性があるということが研究された。

もともと、クリーチャーは戦場に出せば毎ターン攻撃できるので、4マナ3/3の丘巨人は7ターン放って置くとゲームを勝ちに導いてくれる。しかし、それより1マナで1度3点与えるだけの稲妻のほうが経済性が高いというのも当時は発見だった。

そうして全カードにAからEの5段階評価が与えられ、Aクラスのカードが単品で売買される売り物となったのだ。

その頃からゲームをしている身としては、6マナ6/4の「大喰らいのワーム」よりも効果的なカードについて経済性を計算して、今では誰もが知るカードアドバンテージやシナジーにテンポなどの様々のゲーム理論を打ち立てて、単純に売価が決定されてから「高いカードを持っているから強い」という後出しの論理で攻撃されるととても腹が立つのだ。

しかし、現実店でカードは売られているし俺の持ち物と同じものが他のものより高値で陳列されているので、これは言葉で反論しても筋が悪い。それから俺は新しいカードは買わずに10年鑑既に持っているカードの研究と、エクセルによる計算だけでMTGを楽しんでいる。

その成果をブログで写真付きの記事にしているので、高いものを見せびらかして自慢しているというのはちょっと筋が違うのだ。

こんな事を書いて目当ての人に読んでもらえるかとか理解できるかは分からないのだが。


🄫1999-2023 id:karmen