- 作者: 高島俊男
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2001/10
- メディア: 新書
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ただじっとしても耳に入ってくることと、意識して音を言葉に変えることを区別する。
このへんの事情に中国文学者の高島俊男先生が著作の「漢字と日本人」文中で触れており、
要約すると
「江戸時代までの日本には聞くと訊くの区別は無く「きく」であった」
「文明開化のあと西洋の学問の複雑性を取り入れるため大量の漢字が流入した」
「その結果、文語の語彙は格段に増えたが口語とのバランスがとれていない」
「日本人は音声で聞いたことも漢字に変換して認知しないと理解出来ない民族である」
「同じ読みなのに漢字の用法を悩むより、すなおに平仮名を使うのが本来の国語」
と、僕の勝手でズバット短縮するとこういうことになります。
だから松本清張がどうだ、という話ではないのですが、「聞く」を「訊く」とするなら、
「たずねる」のほうが口に出した時の意味の通じ方としていいな、と思ったのです。
こういう話をすると、細かすぎると言われることもあります。
そして、些細な言い回しの指摘で話の腰を折るべきでもないでしょう。
それで誰かに直接いうでなく、ブログに書いて通り過ぎる人の目にとまるといいかなって。
毎日長文をしたためている、このブログを読んでいる方からは意外かも知れませんが、
僕はどちらかというと普段無口なほうであります。
そして本はほとんどの人がそうであるように黙読します。
音読してもチンプンカンプンの哲学書のような物もけっこう好んで読みます。
このへんのギャップが高島先生の本で指摘される通りのことではないかと考えています。
江戸時代から現代に至るまでのねじれを僕ひとり、1代でどうこうも仕方なしですが、
微力ながらもこの言葉のねじれのようなものの周知と修正に力添えできたら嬉しいです。