恩着せがましい

情けは人のためならず、という言葉は恩着せがましいとも取れる。回り回って人への情けが自分の利得になる、という考えは都会では通用しないだろう。また、人に無償の親切をするというのも、されるほうの自尊心の問題や、周りから見て「何かしてもらっているヤツ」にしてしまう問題が発生する。それを踏まえて、よくいる都会人のように干渉をなるべく避ける生き方になる。誕生日サプライズを受けて、お返しをしなかったから仲間からそれとなく遠ざけられた、というような恐ろしい話がソーシャルユピキタス時代の現実なんだろう。


かといって誰とも関わらずに生きるのも難しい。


俺はこうして恩着せがましい親切なヤツから独善的への道を歩んで、友達付き合いを減らして貯金がガッポリ増えた。交際費と言うのも交通費に食費に場所代にと都会ほどバカにならないし、田舎なら野菜や果物を送るのが普通だから、たとえばウチの親など年賀状や暑中見舞いだけで名簿を見ながら相当な額を使っていたが、俺が家に帰っていなければ親父は間違いなく5年ほど前に孤独死していただろう。せっかくかけた情けが帰ってくるかどうかと言うのは風が吹いたら桶屋が儲かるのか、という命題に近い。


俺は悪いことを平気でするようになって警察の世話になったことはあるが、そうすると刑法にさえ詳しくなれば水戸黄門仮面ライダーでも襲って来ない限りは大丈夫なものなのだ。悪役と言うのは役得だと言い切れる。せいぜいがテレビドラマの悪役となんとなく顔が似せられる、という程度の裁きがいまの世の中の限界なのではないだろうか。政治家とか目指すなら、そういうイメージダウンは選挙に問題かも知らんが、そもそも政治家は裁けない最大悪だとも言える。


カバンには新渡戸稲造の武士道という本が入っているが、これを宮本武蔵五輪書のような武士の本と間違っている人がいる。新渡戸稲造は武士などという職業が世の中から消え失せた近代の書家であり、命を賭けて戦う武士が守っていた掟というものは世の中が武士を必要として武士が世の中から特別な扱いを受け、その特別扱いが度を超さないようにするためのものであったが、平和で文明的になった世の中で資本家であった武士がその精神の尊さゆえに庶民にどんどん富をだまし取られて没落した様を描いた本である。このブログを書いている私自身は苗字のゆかりから公家であったことが分かるのだけれど、公家としての富が現在まで続いているのは武家と違って公家は庶民に負けない狡猾さを持っていたということを今にして悟る。まだ人生半分くらいの勘定なので、のこり全部の人生を聖人君子など目指さずに私財を蓄えることをきっちり目標にして暮らして行きたいと思う。本家も分家も嫡男は子供を持っていないが親戚で考えると子供の数は多いのよな。


新聞で満州国の薄儀の話など熟読して今ならその意味が分かる。相続に対する持論もあるが思いのまま綴るわけにもいかない内容になってしまう。