ストリートファイター入門


俺は入門書が好きだ。何か身につけるためには最初は入門から始めるべきだと考えている。高い崖をロープで昇るよりもゆるい坂や階段を登るほうが賢明だし、文化的だと捉えている。小学校のときはそうではなかった。教科書をもらうと後ろのほうのページをめくり最後に何を習うのか先に読んで、後ろのほうに書いてあることのほうが真実に近いと考えていた。いつから考えが逆転したのかはもう思い出せないが、例えば遠足で山登りをするなら富士山に登るよりヘリコプターで空を飛ぶほうが高いと考えていた。山登りとヘリコプターでは差がありすぎてピンと来ないかもしれないが、人類の文明は山を切り開いて石で階段を作ることから始まっているだろう。もちろん登山のためのロープやピッケルも文明的で道具ではある。しかし、誰もが同じ道を行けるようにすることに利があるとするなら、階段のほうが有用である。戦争の場合はこれは反対である。相手に使えないで自国が使える技術によって地理的や資源的な不利の逆転を望めるからだ。


今日はストリートファイターの対戦の入門を書こうと筆を執ったが、共和のためか戦争のためかで書くべきことは変わるだろう。ブログの前身であるホームページを作っていた時は共和の道がコミュニティを広げて自分の生活を豊かにすると信じていた。しかし15年経ってみると、チャンピオンはウメハラ氏となり、俺は情報誌で強いキャラクターを取って勝っている悪役とされるようになってしまった。これはこちらが情報を無料で提供してコミュニティを広げストリートファイターの攻略において底上げを図ってきたことの結果としてはあまりに無惨である。


話が山登りから戦争と来て中国拳法に変わってしまうが、拳法の達人は弟子が信頼に値すべき人物かどうか納得するまで奥義は教えないと言う。拳法は現代ではスポーツだが過去には戦争術のひとつであった。奥義は人を殺す危険な技で、人徳の無いものに危険なものを持たせないという倫理が技術と一体となって受け継がれている。


俺は少し考えが違う。入門もまた奥義なのである。何から手をつければ良いか分からないものに自力で前進する取っ掛かりを身につけるのが入門である。入門は間口を広くしたほうが門下生が集まり道場は繁栄するのかもしれないが、間口が広いと危険人物が混入する可能性もまた広がるのである。


そうすると、誰でもアクセス出来るインターネットに入門の手引きを書き始めるのは算段として間抜けだろう。ストリートファイターは戦争ではないがゲームセンターでの対戦は100円玉が2枚賭けられている。簡単に言うと勝負の楽しみ方ではなくお金の取り方を教えてしまうことに繋がるのだ。そして対戦の攻略法や大会の案内を掲載する情報誌とて有料である。やはり、誰か分からないものに自由で無料の配布をすることは思いとどめよう。


しかし、俺が死ぬ頃にストリートファイターが世の中に残っているかどうかは定かではないが、誰かに俺が培った無形のものを形にして残したいという気持ちはある。しかし、それは今が好機でもないだろう。


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