不変の真理


小学校の頃から社会科が嫌いだった。たとえば都道府県の名前を覚えたりするが、近所の町名が市の合併などでちょうど変わったばかりだった。記録も残っていない大昔の事が歴史に綴られているのも根拠がなさそうだと考えたし、時代とともに移り変わる地名を覚えても、やがて変わってしまう事だろうと考えていた。


その反対に算数や理科は不変の法則であり真理だと考えていた(小学生の頃の話ね)その割に後々には語学ばかり強くなり文系を選ぼうとしたが親の猛反対で理系に進む。それ以上は自分語りになるのでやめておく。


子供の頃は親が厳しく親の言いなりだったので悪い事があると親の言いつけを守っているのに上手く行かないから親のせいだと考えた。しかし、社会人になってから理系知識に行き詰まりを感じて電車の中で歴史の本など読んだりして、歴史的責任という考えを持つようになった。日々のサラリーマン生活は何故苦しいか。今の社会はなぜこのような形なのに誰も不満を持たないのかなどを毎日考えた。


やがて、親の歴史に興味を持つ。親とは父親と母親で別居しているが一度は結婚して子供を3人生んだのだ。どういう経緯だったのか。そして、俺は家系図を読んだり親戚の中でも死に損ないの年長者の話を聞いたりした。良く行く玩具屋が潰れないのは饅頭屋に土地を貸して家賃で成り立っている事なども知った。


驚くべき事に貧乏だと思っていた俺の親父は由緒正しい生まれの金持ちなのだが、就職して愛知県で暮らし会社が嫌になったのか何なのか仕事を辞めて家に帰ってきていたのだ。親父が外に働きに出て行った間に兄弟や親戚で俺の爺さんの財産を食いつぶして遊びほうけて親父に残る財産が減っていたのだ。


俺は叔母さんの人の良さが何となく嘘臭くて昔から嫌いだったが、その経緯と相続の話を知ると、やはり叔母と叔父のがめつさのようなものは異常で、その割を食って親父は狭い土地しか与えられず、俺の学費や家族の生活費なども圧迫して、結果親父の性格形成や母親の浪費や様々のことの原因が分かるようになってきた。


俺はがめつくなってカネを親戚から取り返さないと、働いて稼いだところで到底貯まらないようなカネを「ごんた」で取った叔母を見返さなくてはと親の責任だと思っていた何もかもを解きほぐし直した。


おしくらまんじゅうのように豊かな生活を送れる人のステージに残れる人と追い出される人は入れ替わって行くが、隣の人に外に追い出されたのは、そのさらに隣の人が押したからであって、また押されるのは乗るべき台が小さいのに乗ろうとする人が多いからで、誰ひとりの大きな責任とも言えるものではないが、自分が台に残るために真ん中近くを陣取って他の人が来たら押し返さなくてはならない。


算数も理科も不変の真理であり、それを論理的に突き詰めると社会までもが演算的に解明される日は来るのかもしれない。そうなると道徳や倫理を学ぶものは単純に我慢を強いられて痩せて台の外に放り出される事を甘んじて受け入れているに過ぎないのだという事が分かるだろう。


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