時のらせん


机の引き出しにずっと入っているマジックギャザリングの箱。時のらせんは2006年のセットなのでかれこれ8年近く引き出しの中はそのままなのだな。机に座ったらパソコンしかしないのでペンやメモもずっと古いままホコリがついている。


マジックギャザリングのデッキをどういう風に組むか、特にスイスドローに勝ち残るにはどうするかなど、考えても堂々巡りになる部分はあるが、振り出しに戻ったようで1周分の経験があると、螺旋階段を昇るように同じ陣取りでも少し高いところに来たのだろうと考えることにしている。


カルドセプトも螺旋階段2周を昇り始めている感覚がある。あれこれ考えると堂々巡りではあるけれど、考えるのを止めて実戦してみて考えを少し改める。答えは出ないが手応えとして勝ち以上の何かを掴もうとしている。勝っている。だがそれでは物足りない。勝ちをもっと確固としたものにしたいという欲求がある。しかしきっと負ける時には負けるし、負けを恐れて勝負から逃げたらそれはおしまいなのだ。勝ち逃げでおしまいにするという手もある。


ところで、誰に向けて俺はこのエッセイのような文章を書いているのだろうか。読んでる?そう、それは良かった。


考えて実戦して考えを改めると先に書いたが、段々と考えて実戦して考えが合っていることを確認するということも増えている。やる前からどんなことが起こりそうかと言う目星はついて、そこまで見当ハズレにはならない。この理論と実戦の合致のブレが無くなったら、完全に理解しているということなのだろう。でも本当にそんな境地を目指しているかと言うと、サイコロを振って遊ぶ以上はその出目に結果を委ねると言う、確実とは正反対の遊びを楽しんでいる。ハナから矛盾しているような論考なんだよな。


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