あんなんどうせしょうもない「貧乏人の論理」

ストリートファイターの対戦をゲームのルールを知らない女子が見ていたら負けてコインをどんどん入れているほうがお金を持っていて強そうに見えるという話を以前書いた。勝ち負けの感性は人によって違うなと。


しかし、ストリートファイターで勝ったとしてコインを入れて一度も負けなくても100円玉が返ってくる事は無い。お金をどんどん入れるのが負けていて弱いということを論拠とすれば、翻って一度もやらない人のほうが強いのではないか、と言う事が出来る。これは論理としては正しい。


ストリートファイターをゲーセンでやることはゲーセンに100円負けているので、全くやらないようになった。家でプレステで遊ぶ。そうすると「どうしたの」という友人や「貧乏人みたいになった」という女子もいる。


もしゲームセンターで遊びたいのに我慢しているだけだとするならば、お金があって、それを使う事で欲求を満たせるのにやせ我慢をしているなら守銭奴ということになる。そして勝負と言うのは決着がついた時点で決まるものなので、一度もやらない人というのは決着していないので、確かに負けてもいないが勝ってもいないのだ。もう一歩踏み込んだ論理になって、これは正しい。


そこまで言うと「そんなんはじめから分かってる。どうせあたしら貧乏よ」と拗ねられてしまった。人間は論理ではなく感情の生き物である。論理的に正しい事で相手を追い込んだ所で、仲良くなったりするものでもない。


あるいは間違った論理かもしれないが、誰しも自分を正当化するための論理と言うのは持っていて、本心ではどこか自分にウソをついている矛盾点があっても、日々生きるための仕事はこなさなくてはいけないから、悩み事に直面せずに遠ざけておくための時間稼ぎのための複雑な論理というのは必要なのだ。


間違った論理と言うのはそれを正せば世の中がすぐ良くなるわけではなく、全部取っ払ったら何か厄介な事になる類のものなのだ。間違っているのが自明なのに言い合いに負けたくないから自分の感情を曲げてでも相手と反対の意見を通そうとする人もいて、というかウチの親父がそうなのだが、みな面倒なので親父が何か言い始めると間違っていても「そうですね」となる。しかし、いつまでもそれだと自分が惨めなので今日は言い負かしてえらいめに会った。最後は暴力なのだ。そうしておきながら反撃すると「親を殴ったな!出て行け!」みたいなことになる。出て行った事もある。しかし、そのくらいの事さえ我慢しておいたら広い家で家賃がタダなのだ。結局はカネに負けているのだ。


ストリートファイターの話に戻すと、論理がどう直ったところで俺は100円を払うほうが勿体ない側につくことにした。プレステで同じゲームは遊べるのだから、わざわざ出向く事は無い。そして勝負においても、誰かと白黒付ける必要性は無い。勝ちもしないし負けもしない状態が維持出来るなら、それのほうが理想に近いかも知れないから。