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正義感の芽生える生い立ち

俺は金持ちの生まれなので産まれてこの方盗みの被害に遭う事はあっても盗む必要を感じた事は無かった。買えば良いからだ。そして盗みの被害に遭わないようにするには金庫や鍵が有効ではあるが、俺の場合は正義が広く人間全てに行き渡る事で盗みが無くなるだろうと思い込んでいた。


しかし、現実には同じものが手に入るなら人は盗まない。経済成長と物価の下落が盗みに対する最も有効な方策なのだ。買えないから盗む、高いから盗むのだ。


それでも俺の子供の頃に培った正義感と言うものは時折判断の邪魔になる。バブルガムブラザーズのウォンビーロンには「足りない頭なら知恵を盗みゃいい」と出てくるが、俺はあの歌詞が嫌いで知的財産権が大好きである。やはり知に置いても本をたくさん買えるという理由から富裕層のほうが知識が多い傾向がある。これを物取りと同様に考えると高校無償化で知恵泥棒はずいぶん減るのではないかと期待しているが、俺が嫌いなのは答えのカンニングで、途中経過まで含めて全て理解されるならそれは知恵泥棒ではなく勉強と全く違わない。これは要するに問いが悪いのだ。


世の中には試験があるので、その問いに対する正答が知識の必要充分であると考える人も多い。盗みたいのは試験の答えであり学生証であり卒業証書である。俺の場合は勉強しようと思うとき欲しいのは知識そのものであることが多いが、そういうものは語ったり問われて答えないと表に出ないものである。


総じて俺のほうが目的意識が希薄な雑学家なのであろう。そして正義は真理でなく倫理観のひとつにすぎないのだ。いま俺は何を手に入れたくて、そのためにどんな手を打つべきか。自分で自分の欲しい物すらわからないのか、あるいは分かり切っているが手に入らなくて辛いから無意識に遠のけているのか。そうだとすると思い出さないほうが幸福かも知れない。何もかも願えば叶うほど世の中そういう風には出来ていないからな。


知恵と言うのは不確実な自然の中で天文という周期性のある性質を発見して気候に応用し毎年の畑の実りを確実なものに変えて来て人間は生き残って来た。その先人達から授かった知恵を持ってして麻雀などの不確実な賭博で勝ちたいと願うのは愚かなことだろう。おおよそ愚かなのだが、愚かでも成功をつかむものがいる世の中が賢者には妬ましく憎らしいのではないだろうか。俺は勉強してこれだけの稼ぎなのに同じ稼ぎを勉強しないで得ているのは許せない。


そして人間の能力を表すバロメーターは知力だけではなく、俺には筋力は無いのでせめて腕立てと腹筋だけはすることにした。それはそれでいいのだが。賢さにおいて倫理観の無い悪賢いもののほうが善より得をする世の中なら俺は今より悪賢くならなくてはいけないだろうし、そうすると今まで勉強しながら培った考え方の何もかもは根本的に否定しなければならない。それは苦しい。


苦しいが、それは今より良い状態になるための通過儀礼なのだろうと思う事にしている。