98%のテーゼ

先日は大学生の人口を統計を元に98%くらいの一致率で合わせたら「それでも2%狂ってるやん」という意見が出た。畑村洋太郎先生が「モノの重さを量らずに外からの見た目から計算して言い当てるとき倍から半分までに収めれるようになったら合格」という話をしていて、実際に計算値と実測値が合わない経験を何度もして、倍から半分とは言わないがコンピュータを使っても80%から120%くらいまでに収めれば物事はたいてい上手く運ぶだろうという自分の尺度が有る。


その一方で俺はアンチテーゼが好きで、なにか処世訓や格言があると粗探しをして反対の理論を展開してしまう。それは計算で98%まで求めても2%の不満があるということと似ていると気付いたんだ。真理ではなくとも8割うまくいく処世訓というのがあれば大勢の人にとってそれは有用なんだ。


将棋のプログラムの師匠が「駒得だけと言う簡単な評価関数でも100万年計算すれば絶妙の指し手を生み出すので下手な考え休むに似たりというが下手でも100万年計算すれば上手に勝つんだ」という話をしていたが、これも反論の切り口は色々と有る。まずは「休むに似たりだから誤差を許容した言葉であり、休みであるとは言っていない」とか「100万年ではなく人間の一生である100年に丸めるとやはり休みに似たり」とかなんとか、揚げ足を取って遊ぶことは出来る。


しかし、この「休むに似たりも100万年やれば」という思想はコンピュータ科学の大切な部分で、ほんの少しの利得をポジットできれば通電しておくだけで機械が勝手にやってくれるものを外から急かそうとしないほうが賢明ということが言いたいんだろうなと。将棋盤を二進数に捉えて駒の働きを評価値と言うスカラーモデリングして残りはコンピュータに全探索させて放っておく。それだけで充分な良い仕事をするのに人間がそれに頭を煩わせる必要は無いのではないかということなんだよな。


要するにプログラムの根幹は解決していてハードの進化と計算時間を掛けるとやがて解決する問題である事が自明なのに現在においてそれに取り組む事はひたすら待つと訪れる未来を少し早く見ているに過ぎない。競技として時間の縛りが有るので参加するために工夫するのも分かるが、そういう利得に興味が無いなら「果報は寝て待て」で良いではないのかと。ちなみに俺の親父はクルマを運転していて信号の無い交差点に差し掛かると必ず「待てば海路の日和ありじゃ」と言って無理な割り込みをせずひたすら空くまで待つ。息子の俺はもう少しせっかちだ。


どうしてアンチテーゼが多くなるかと言うと、俺の思想は実はほとんど格言で形成されている。だからブログにはアンチテーゼを書くが子供の頃にはたくさんの諺を覚えてそれが思想の根幹になっていて、時々上手く行かない局面に差し掛かった時にアンチテーゼを考えて思考を修正する。その修正の過程をブログに綴っている。だから格言をたくさん知らないで俺の書くアンチテーゼだけ読んでいる人がもしいたらヘンテコな頭になってしまうだろう。そして真理と言うものがもし世の中全てを表すとしたら、地球上の分子や宇宙全ての諸々の事が入った凄まじい容量のコンピューターと言う事になるだろう。外宇宙的に大きいはずだ。だから人の頭は真理を理解出来る容量ではない。


その中でモノを考えるのだから8割正しい提言を2割の反論で否定していたらいつまでも考えがまとまらないだろう。これこそが俺の打ち出した98%のテーゼなのだ。


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