人間の尊厳を

コンピュータ将棋が人間に勝って人間の尊厳とは何かと言う議論が今年のはじめに成されたんですけど、割と最近までコンピュータ将棋のプログラムは複雑で難解なもので、そのプログラムを組むのも人間だから人間に尊厳はあるというようなモノの見方をしていたんですよね。


それが、案外と簡単な(将棋ベーシックの場合2000行で72KB)プログラムで
もはや自分の棋力では太刀打ち出来なくなり、俺の頭もこんなものかと思うようになってしまいました。


思わず落ち込んでクラクラして聖書をひもときました。人間の尊厳とは。アダムとエバ(「イブ」とも)はサタンにそそのかされて知恵の実を食べて裸である事が恥ずかしくなりうんぬんかんぬん。人間の尊厳は他者から受け入れられる事で保たれてサタンに取り入られた人間は他人を侮蔑し、侮蔑された人間は尊厳をうしなうけれどイエスの手に触れる事で尊厳を取り戻す。結局は人肌のぬくもりを感じて人間は生きている実感を持つのだな、よしコンピュータの勉強やめてゴムや樹脂で人肌を再現する素材の研究でもしようかと思うほど、冬にひとりの部屋でコンピュータの将棋に負けて気持ちのやり場がない惨めな気持ちになりました。


そうしてから居間でコーヒーを入れると地方のクルマ社会の進行が大型モールでの買い物を加速させ商店街の閉店と高齢化による買い物難民が生まれるスパイラルが説明されており、結局生協のボランティアによる配給車の導入で未来のある番組の括り方ではあったけれど、俺の住む田舎町もやがてはそういう日が来る。将棋どころじゃねーよなという気分にもなりました。


そう、聖書を読んだあたりから興味を将棋から逸らして精神の安定を保っているんです。もうコンピュータ将棋なんて関係ない。そうやって逃げないと、また頑張り過ぎて鬱の気配が濃くなります。最新のコンピュータではなくフロッピー1枚でも余裕のプログラムに将棋で負けたんですよ。電卓や電子辞書くらいで同じ気持ちになった人もいるだろうけど、将棋はひとつの拠り所だったんですよね。それを失くして安定を保つための代わりのものが今は生活や聖書。スーパーの弁当暮らしの生活や読んでためになるかも分からない神話の世界。でも、昔の人はそれすら全員分はなかったわけです。恵まれてんです。充分。


まあ、ブログ書いてるうちに腹が減ったし飯の準備もできたしまた将棋プログラムをコンピュータ同士戦わせるために改良してもいいかなという元気が溜まって来ました。でも自分で強くなるのはどこか諦めてるし冷めています。それにも熱がやがては戻るんでしょうか。


36歳の冬です。