海を見て海と言う。それは当たり前。

旧約聖書の創世記で神は天と地を分け陸と海と空を名付けられる。

俺は何から人に伝えるべきか大きな悩みを持っていて、まず空を空と海を海と呼ぶのは日本人にとっては神の名付けによるものではなく先祖代々からの言い伝えによるものだと考えている人がほとんどだろうし、実際にそうだろう。

英語圏であれば空はスカイで海はシーである。これは文化的に空と海を一体の大きなものとして捉えるという常識が共通しているから伝わる概念だと言える。日本では虹は七色だが、何色に分けるのかは文化圏によって違うという話を聞いたことはあるだろう。

海というのは人間にはとても解りやすい概念だが、地図の海岸線はどうやって引かれたものなのかふと分からなくなったりする。海は波打っている。しかし地図の海岸線は一定の線で描かれている。当たり前だが、社会科で学ぶことのほとんどは時効が付いている。歴史を学ぶ間にも現代は少しずつ過去になってゆくし、川は少しずつその流れで岩を削り土砂を運ぶ。

だから、それを突き詰めて分子の粒度で海という大きなものを捉えようとしても掴みどころが無い。小さな粒度で捉えるためには試験管に取り、シャーレに入れて顕微鏡で見る。そういうことをミクロという。

しかし、そんなことをしなくても海を見たことのある人は海を海と捉えて海と呼べば海と分かる。こういう人間の曖昧なマクロの捉え方を踏まえていくと哲学に足場ができる。

普通に哲学というとデカルト懐疑論我思う、ゆえに我あり」だろう。

いや、そこまで疑うと分からないから。海も湖かもしれないし、起きている事象は全て夢かもしれない。それでもデカルトでも海辺に行って海を見れば海だって分かるだろ。

そのように大抵の哲学は内向的でミクロなものの捉え方にこだわって、マクロを他者と共有する中にも捉え方の揺るぎがない真理があることを示すものに出会ったことがない。行ったこともない国の言葉や見たこともない風景を伝聞で伝えるのはとても難しいので、俺自身も学生時代は社会科に対しては懐疑的で理科と数学だけは間違いないと考えた。哲学も好きだった。

海岸線のどこからどこまで海なのか境界を考えると分からなくなるが、海は海だと分かる。だから境界線が何処から何処までか分からないという角度のみで海がなんだか分からないという風に切り込んでしまう哲学家がいることが残念だ。

とりあえず海も山も神様が作ったことにして、そこから発展した科学がやがて聖書を否定したとしても、ことの起こりとして神様は否定しちゃダメだというのが最近の持論なんですよ。人間の歴史をかけて背理法で証明されたのが科学なんだ。

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