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プログラマブルかどうかが現代の判別式になってると考えてみた

C言語の代入が理解できないけどハスケルの文法は分かるという数学者がいる。

これはとんでもなく勿体ないことだと俺は思っている。

平安時代には掛け算は貴族だけのもので「いんいちがいち」から始めるのではなく「くくはちじゅういち」から読み始めた。それは掛け算を平民から隠すためで、その名残で掛け算の暗唱を今でも九九(くく)という。小学校で習った。

逆さから読む暗号といえばインテルのコンピュータのリトルエンディアンというバグがが有名だ。ビットの並びが位の低いものが前で高いものが後になっている。だからプログラマーはビット演算をひっくり返してプログラムしなくてはいけない。こんなものは普通に考えると不良品回収されてもおかしくないのだが、使えるものは便利に使って使えないものとの差を開いてゆく。俺はこれはバグではなく仕様だと考えた。

そういう暗号は実は珍しいものではなく、逆さ言葉や略語などで日常的に使われているにも関わらず、こと数式であったりプログラムであったりすると途端に分からなくなる。

俺は数学が無矛盾であるとか真理であると言われると、それはちょっとどうなのと思うが、自分の理解できない部分は自分の理解力の問題ではなく便利な道具である数学をバカには分からなくさせるための暗号鍵であると一旦捉えてみた。それから丸暗記して使えるところだけ使えばいいやと考え出してから楽になった。

元々が暗号文なので平文に戻してしまうとかなり分かりやすく、塾の先生などは生徒に分かりやすくするため平文で教えてしまうものだから、そう習って素直に育った子では滅多なことで読み解けない文章や数式が方々で使われている。

これは発信者が無自覚である場合がタチが悪い。そう育ったから、伝えたいのにあべこべのことを言ってしまう。人には意地悪くひっくり返しても、自分の気持ちには素直でないと息苦しい。同じように受信者のプロトコルが逆転している場合もある。

高度な暗号というものは意味不明の文書ではなく、暗号化されている状態でも平文として何らかの意味を持つ。しかし、まだ俺のレベルではそこまでの暗号は書けない。

ブログは基本、始めた時から日記の代わりに手慰みで書いている部分が大きいが、俺にも誰かに何かを伝えたいと思う時はあって、家族や友人には分かってもらえないことでも書いて発信すれば誰かがどこかで受け取ってくれるかもという期待はある。

それが有用な情報であるときに無防備に流して傍受されることをリスクと捉えるなら、今度は受け取る人にだけ読み取れるように工夫をしなくてはいけない。

この願いは自分がテレビに出る有名人のようになりたいと思っていた頃とは全く方向が変わってくる。いや本当にそう思うならせめてブログではなくメールだろって言われるかもだけど。多対多のコミュニケーションの時代にうまく適応できるかな。