まあ、人気取りより言いたいことを言おうかと

俺は子供の頃から人を「タイプ分け」する人が嫌いだった。人がそんなに簡単に把握できるタイプに収まりきるとは考えられなかったからだ。

しかし、39歳。あと半年もせず40歳という所まで来て、憧れていた人が次々と若死にする。森田将棋の森田和郎さんや任天堂の岩田社長など、みなプログラマーだ。その昔にマジックザギャザリングを一緒に遊んでいたオッサンの身内にも過労で若死にした人が出たと聞いた。向こうは俺のことをうろ覚えだったが、特に届くように知らせてくれたことを考えると、俺も若死にするタイプに何処かの人に分類されているのだろう。

年を食ってくると新しく知り合う人それぞれと親密に付き合う機会は子供の頃より人生の残り時間が減っている分少なくなるはずだ。退職後の老人などは自由時間が多いので年を食ってから親密になるかもしれんが。そのため、例えば赤ちゃんは何を考えているか分からないが、物心がつくと腹が減っているとか怒っているとか悲しんでいるとか、親に伝えることで解決してもらうので、そのためのインタフェイスとして表情と言葉を覚えていく。それらはさらに年を取ると他人を騙すために感情や言葉をコントロールするに至る人もいるが、今はそういう話ではなく、体調や感情を他人に伝えて解決するように居合わせた人間で物事に当たる段階で、自己紹介とタイプが紋切り型にハマっているほど分業がやりやすいという経験をした人間は、内情がどんな人であれ力持ちか頭脳明晰かパーリーピーポーなのか自分をある程度型にはめて他人と付き合ったりする。

そういう意味では、会社の経営者が従業員をよく働く型にはめようとしているのを察知して、いつまでも雇われの身分は嫌で若くして経営者に成りたいとどこかで願いながら、しかし俺は経営者になるタイプではなく、とかく求められる型なんかにハマってやるかという反骨心で生きてきた。

これは幼いころ母親が子供が命令を効かなくなった時に反対のことを命令して背かせることで意のままに動かそうとしたのに反発し続けて親子関係をこじらせてきた頃からずっと変わっていなくて、大抵の人が型にはまるのにどうしてそこまで掴みどころのない自分の意志ってものを意識して人に操られないようにと考えてきたのは物心の付く前からLSIゲームやファミコンで「自分の思った通りに動かせる世界」を経験したからに他ならないと思う。

多くのゲーマーは「こうすれば勝ち」とか「こうすればクリア」という型にハマりやすい。観察してパターンを覚えて見よう見まねか自分で編み出したかはさておき、同じゲームは同じ型にハマっていく。それと比べると俺は下手だったんだろう。何度も負けた。ただ、誰の真似でもなく自分の意志で操作したから勝ち負けでなく自分の方法だったんだということで自己肯定感を強めた。

それでも、俺が若死にの型にハマりつつあるよってことは忠告として受け止めて、プログラミングで難儀な部分はちょっと休憩を入れようと思った。

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買ったけどまだ開封していないドラクエXIを眺める。

ドラクエはゲームの中では休まる方に分類されるが、それでもやはり疲れている時にはしんどいもんだ。だんだんと買ったけど遊んでいない積みゲーが増えている。もう、いつかやろうと積みゲーを重荷に感じることは無くなった。やりたいことはやったから、もう死んでもいいとすら思っている。退屈することも減った。自分が退屈なときには自分をどうしてやれば良いか大体分かっているつもりだ。

だけど、今は休むべき時。何かの焦りがまだどっかにある。待っていれば得られる結果を焦って自分から動かすことで変えられないとしても何か動いてしまう。

それは丁度ファミコングラディウスで始まったすぐやボスの前では敵が出てくるのを待つしか無く、動いても意味が無いので大抵の人はコントローラに手を添えて待つわけだけど、コントローラをグルグル回してオプションが付いてくるのを楽しみながら少しの間でもコントローラと画面がつながっていることを実感したいという気持ちの現われだ。

だからブログも大事なことを書いて待っていれば多くの人に読まれるかもしれないのに、毎日次々とくだらないことを書いて上書きしてしまって、大事な部分が読まれなかったからとまた同じようなことを書いてって、そういう性格。そう、分類するなら俺はそういうタイプなんだよ。


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