ゲーメストライターってホンマに強いんけ?

格闘ゲームにどのくらい腕の差が出るのかというのは常に議論の的ですが。

ストIIターボと餓狼伝説スペシャルの最盛期にはゲーセンゲームのことをアーケードと呼んでですね、アーケード唯一の専門誌ゲーメストにダイアグラムというものが載っていたんですよ。

それは登場キャラクターを全て升掛けにして、リュウ対ガイルは10点満点で6対4であるとか、キムカッファン対アンデイボガードは五分で5対5であるとか、そういう風にキャラ毎の相性を数値化して総合順位を決めようという試みが為されていたんです。

しかし、読者レベルでのダイアグラム観というのもあってですね、ライターが決めたダイアグラムに納得がいかないって人もいるし、謙虚に雑誌を読んで相手に勝ちたいがために有利とされているキャラを選んで取るという人もいたわけです。

そうして、自分のキャラが有利なのに負けると、腕の差を認めるのが謙虚なのですが、だいたいゲームにカネを払うなんてのは甘ちゃんのボンボンであった時代、負けたからにはこっちが不利であろうと雑誌が間違っているという持ちかけをする人もいたし、また、俺も自分が強いと思い上がって雑誌で有利なキャラを取ると負けたほうがキャラのせいにするという状況が不愉快なので敢えてダイア不利なキャラを選んで対戦に勝つことで自分の実力を認めさせようというひねくれた考えの持ち主でした。

これらは刊行当時にはゲーセンで対戦する多くの人が毎月読んでいたので、ダイアグラムとゲームセンターでの勝敗の相関関係による人の腕の序列みたいなのが互いに認識されていたんですよね。アイツは勝ってるけどキャラが強いなとか、あの人弱いキャラなのに頑張っているなとか、乱入するたびに有利な方に変えるよなとか、画面から見た上手い下手以外の視点が備わっていたんですよ。

だけど、ホビージャパンがマジックザギャザリングの大会で上位プレイヤーをライターにしてゲーム攻略よりもプレイヤーにキャラクター性を持たせた記事づくりをしていたのを参考に、格闘ゲームの人気が落ちて部数の伸びないゲーメストの後継雑誌アルカディアもゲーム大会を開いて優勝者に記事を書かせるという形態に変わってから、記者同士の腕前を最高の取り組みと仮定したダイアグラムという雑誌の作り方は失われてキャラ差だろうが博打だろうが勝てば正義で勝ったものの意見が強権的に通ってしまうという時代もあったんですよね。

それと家庭用ゲーム機へのアーケードの完全移植とネットの普及(ネット対戦の普及でなくインターネットと言えばヤフーがトップページでホームページを自分で作ってアップする時代のネットね)で、雑誌ゲーメストのライターが全てのプレイヤーの代弁者となる時代が終わって、勝てば官軍だし言論に関してはネットにつながっているものが好き勝手言えるようになって、実力の客観視や勝負の公平性が失われていった風に見て取れたわけです。

ある意味でストIIや餓狼はシステムも単純で攻略も煮詰まりやすく、文句を言う人はいたものの雑誌のダイアグラムって順当だったと考え直すようになったんですよ。それが大会本位の雑誌作りになって、大会上位者は別世界で遠い存在という読者の感想に対して、ゲーセンで遊んでダイアグラムという時代は皆がモノを知らないゆえにライターに対する親近感や「やってみたら自分のゲーセンのあの人のほうが強いかもしれないぞ」という風に読まれていたんじゃないのかな。

格闘ゲームの持ちキャラって難しいもんで、初心者だからハンデとして強いキャラを取って上級者は反対に弱いキャラでバランスを取るってのは誰しもがアバターとしてのキャラが誰でも良くて上手くなったら初心者の頃とキャラを変えてまたイチから練習しないといけないって暗黙的な敷居の高さを作っちゃうんですよ。

見た目や声などのキャラが好きだからそのキャラで遊びたいがためにゲームを始めるのに、そのキャラが対戦で強いか弱いかだけで語るってのは感情面への配慮として不足してますよね。

そのへん「キャラ差のあるゲームはつまらない」と言ってしまうと、じゃあ昔のゲームのバランスを今のプロゲーマー級のやり込みで比べたらどやねんというと、やっぱ実はバランス悪いんですよ。バランスの悪いゲームを遊ぶ人が工夫して面白く見せていたんですよね。

だから近頃はどのゲームも相手次第で面白くもつまらなくもなるし、もちろん自分のやりこみでも面白くなる部分もあるし、キャラクター性を排したルールとしてのゲームの面白さは今も昔もそこまで変わらんかなと思ってます。

ただ、勝った人に物を言わせてそれで雑誌がおしまいってのは視点として歪みがあるんじゃないのかなって気はします。それって読書が作家の書いた小説から成金の書いたビジネス本になっちゃうのと同じ成功者バイアスの掛かった偏見のもとじゃないかな。