愛ってなんだろう、ちょっと分かった気がして

サピエンス全史は読まずに書評の抜粋だけ読んだんだけど、人間が農耕をしているのではなく米などの炭水化物に人間が利用されているというインチキな逆説だった。

例えば人を殴って裁判になった時に「俺がグーで殴ったのではなく相手が自分の拳に頭突きをしたのだ」と言っても、恐らくは通らない。人が意思を持って人を憎み制裁を加えようと暴力に出た。これは外面からは把握できない主観であるけれど、人間社会はそういう風に素直な目線で見た時の「分かりやすさ」で成り立っている。

選挙になると不倫の話が出てくるが、法として婚姻関係を結んだ以外の人と関係をもつことがダメなのか、それとも思想の上で愛を守るために夫婦以外の異性を思うことが許されないのか。これは他者から見て許されないのか、自分の中で許されないのかの違いであって、愛とは他者から見て分かるものではなく、その本人にしか分からないものだ。

法は人間社会の中で互いに守り合うものだが、思想というのは人それぞれの主観であるから、法を説いて物理的肉体的にそう見て取れる犯罪を縛るのか、それとも思想を説いて人に何かを信じ込ませて自発的に善行を積ませるかという両面から見て、思想のない法はあり得ないが、法のない思想はあり得るわけだ。

愛とは法のない思想のようなものだと考えられるし、夫婦以外の人間を心で思うことすら許さないという厳しさは嫉妬や恨みのもとである。

愛とは秩序のための法のない思想であり、明文化が避けられる矛盾のある概念なのだ。

そして俺が怖いと思うのは愛の無いセックスではなく愛の無い婚姻関係なのであるが、それと同じくらい法を元に組み上げられた思想を心から信じて他者にそれを行動として強いる人の群れも怖いんだよね。新興宗教の強引な勧誘をいわゆる普通の人がが怖がるように普通の人が変わった人に向ける気持ちも多数の正義になるから。

例えばそれは結婚した人が会社勤めをしていて、会社に出た旦那がOLと話をするだけでも妬ましい奥さんとかさ。牧師さんが説く愛は夫婦がふたりで暮らしているという条件が社会秩序として満たされているから、法がなくても理解できて機能した。

そろそろ、その道徳が街で生きる人にとっては不便で理不尽なものになっているのだけど、法を守っている人は理解できるんだけど思想で持って愛を守っている人の嫉妬や恨みってのは対外行動として理解できない複雑さがあって、付き合いにくい。

自分の嫁さんが他の男と話をしているだけでも妬ましいとか。そうなると社交は断絶されるわけで、俺の住む田舎の商店街では飲みは男同士で女は家を守って買い物に出かけるって慣習が根付いていて、スーパーに男が買い物に行くだけで異端の目を向けられる。だから自分が生活するためには女と話して買い物をするためのオプションのような妻が必要で、経済的には大丈夫でも社会的に不可能ではないけど不便に思うことがたくさんある。

だけど老齢になるとそれは解消されて、80歳の未亡人ともなると爺さんにモテたりしているようで、愛の束縛はやはり命ある限りのものかもなと例外もあるかもだけど。

プラトニック・ラブ