俺に「何か喋れ」って言われても

若い頃はモノが分からないから、親父が言ったから、先生が言ったから、教科書に書いてあるから、それくらいしか拠り所がないんですよ。だけど算数なら分かるし、理科なら実験できる。でも社会科は地名とか人が付けたもので政治によっても変わるものだし、歴史だってどうやってそんな昔のことが分かるんだって疑念がずっとあって。

それでイチバンハマったのは全てを疑う哲学ですよね。どうしてだ?それに答えがあるなら、その答えはさらにどうしてだと延々と考える。歴史なんてと言いながらも歴史的な哲学者の名前とかは喜んで覚えてさ。

だけど、普段から哲学的に疑ってばかりじゃ生活できないから、色々言うんですけど勉強不足でした。そして発言に際して「自分はこう思う」という枠を超えて「これはこういうものだ」という言い方は嫌いで、ソクラテスのごとく「それはどうしてだ」って追い詰めていたんですよね。それは自分も何も知らないことから自分を守るため。

その例外がコンピュータゲームで、ファミコンカセットに焼き付けられたプログラムってそうそう改変できないから、フロッピー式のパソコンで育ったらまた違ったかもだけど、理科の実験よりコンピュータゲームとゲーム雑誌を照らし合わせるのが好きで、本当に没頭して遊んだし、何事をも疑う性質もつまりは勉強が嫌で突っぱねていた部分もあるだろうけど、ファミコンで話が合うと見解の相違とか滅多に出ないのが良かったですね。

そして、そうするうちにゲーム雑誌のゲームプログラムとは無関係のオマケの話にどんどん騙されていったんだと振り返ります。若いライターが子供に偏った考え方を刷り込んでいたんですよね。同時に、ゲームに関して本のとおりにやるとそうなるという関係から、ゲームの本に書いて有ることは正しいと信じるようになっていった。

それがやがてストリートファイターでゲームセンターに通う見知らぬ人と勝ち負けを決めることが出来る場所ができた。合法な賭場という半無法地帯で唯一のルールであるコンピュータプログラムのブラックボックステストに全精力を注ぎ込むようになって。まあ、その頃は最強中学生で別にゲームに限らず何処の業界にでも一人はいる神童ってやつですよ。

それが成人してひょんなことから会社勤めをしてしまっておかしくなった。まだ、ゲームプログラム以外に拠り所のない人間がプログラムの解析と改変だけを身に付けて黒い思念の渦巻く大人の社会の中でどんどん便利な駒になっていき、そうであることを自ら誇っていたんだから。

それがいつしか、ゲームプログラムの仕様に対する解釈のすり合わせという観点からつながっていたはずの人間関係がゲームで勝ったものが発言権を得て権威になるという人間関係に見えてきてしまったんですよね。

明日11月22日のテレビ番組「笑ってコラえて」に東大卒プロゲーマーの谷口一さんが出ることを番宣で知って、ちゃんと尺を取って放送されるなら、どういう映像になるんだろうかと期待より不安のが少し大きいくらいの感覚で待っているんです。

どんな内容の放送になるんでしょうか。

まあでも、イマドキは「スマホで調べたら出てくるから」が新しい拠り所かもしれませんね。ゲーム雑誌だって昔ほど偏ってないし、むしろ広告であることを分かって読む大人のためのものだからね。この文章の内容が理解できるのもゲームとゲーム雑誌の歴史を体験してきた30代40代だけかもしれないから。