ギプスを外して包帯だけになった

まだ拳を握ると形が少しイビツなのでギプスのクッションを丸めたものを手に握って包帯で巻いて骨が自然に固まるまで固定してもらった。なんだか手のひらに猫の肉球が付いたような感覚でひとりで「にくきゅー!」と喜んでいる。

 

社会に対して批判をするということは間接的に社会の構成員である人間を批判するってことになるから、それが遠くて関係がないと思って失うものを持たずに批判できるジャーナリストって言うなれば瀬戸際なんですよね。

中立は善から見れば悪で悪から見れば善で、真の正義とは義のバランスを取る役割を示すわけですが、卵がそのままの形ではテーブルに立たないように、絶対的にバランスの取れた中立というポイントは掴めず、ちょっと長文を書いてみたら自滅的な内容になり「ああ。今の俺は人に批判とか出来る立場じゃねーわ」と思いました。

卵で言うと立った形でなく寝ている形でテーブルを転がるわけで、それこそが世界のありふれた正しい形であり、現状と思想が違っている時は間違っているのは思想の方であり、理想を掲げて改革を謳うのは現実に対する正しい処置の出来ない弱者なんよな。

ただ、自身が強くて弱い者の味方であれというのは、個で考えると強いのかもだけど後ろ盾になっている味方が弱いわけで、団体戦という視座に就くとやはり弱者なんだよ。

そういう意味では強いものと弱いものに分けて考えて強いものが弱いものを守るべきって考え方と、そもそも人に先天的な強弱の差はさほどなく弱いものは強くなるように励むべきって考え方があって、しかし現実には強いものが弱いものをいじめているわけで、強い方を弱めようとする考え方は力が強くて頭が弱い者にしか通じないので、弱い方を強めようって考え方のほうが理にかなっているんじゃないのかなと。

まあ、世の中に格差やいじめがあってもそのままでも良いじゃないかって考え方ももちろんあると思うんですけどね。「あらためる方向としては」ですよ。