ブログ継続の理由は座右の銘「継続は力なり」

 ふと、この座右の銘自体が間違っていたりしないだろうかと疑ってみる。休息が力になるケースだって良くあることだ。押してダメなら引いてみる。

また、継続した結果どういう状態になることを望んでいるのかということも併せて考えなくてはならない。文章力を上げて将来作家になるとか、ブログの広告収入で利益を上げたいとか、そういう動機ならブログでなく小説を書き始める方が良いとか、もっと利益の見込める物の仕事を探すとか。

そして、継続はしているがタイピングゲームでもやったほうが打鍵速度は上がる。俺の場合は最初ワープロが遅く周りの人に比べてパソコンを持つのが遅かったからだと思い追い上げるために必死で練習したが、独力なのでキーボードを見ながらたまに画面を確認して目で打っている。速くなる人は一度スピードが落ちたとしても見ないで打つ訓練をして以前の自分を追い越すように速くなるものらしい。

とかく、何でも良いから毎日パソコンに向かっていてダラダラ思ったことを書くということを継続したところでダラダラする力が上がっているだけなのでは無いかというブルーな気分にすらなる。

とかく、無目的になっている。目的を近くに設定すると達成しやすいが、遠い場合には進んでみて方向確認をして時に転換する必要もまたあるのではないか。

文章力は果たして上がっているのか。これは上がっている自信はあるが、伝えたいことが「それを伝えることで世界にどう影響するのか」という視点をあらためることで、本当は伝えては損であることも経験してきた。不特定多数の人に読まれるうえ、著作権のような防御も全く出来ていないウェブの世界に前例はない。ただ、誰もしていないからやってみないと分からないという理由でやっても損が目に見えていることから目を背けてきただけのようにも思える。

そしてそれを後押しする言葉は常に継続は力なりであった。

では、本当に損をしているのか。小説家にはまだなっていない。広告収入も知れている。そして何度も盗作をされ憤った。それが、盗ませ続けるうちにいつからか検索に自分に有用な情報が読みやすい形でかかるようになってきたのではないか。それが自分のしてきたことと因果関係を持っているかどうかは計り知れないが、そう思うことも出来る。

自分に事が有利に進むように風説を流そうとか、ウソを書こうとしても俺はそんなに器用ではない。ただ、自分の考えを自分で見つめ直すために書き出して自分で読んであらためるということは繰り返すことで効果がある。それを自分のためにだけやるのではなく公開するというのは啓蒙思想というと大げさだけど、みんなが賢くなればみんなが豊かになるだろうというとても左寄りの思想になる。

しかし俺は右に付くほど得をする金持ちの家の子だ。庶民から真実を隠し、勤労を強い、魔法のような手立てで様々な契約による搾取をすることで財を成す家の子だ。だがその矛盾に気付いたのもネットに物を書きながら蓄えた知識から気付いたことだ。

俺がブログを通して続けている、自分でも最も悪いと思う行為は伝えるべきことを隠すのではなく、伝えてしまった失敗を消すことでもなく、途方もない分量に押し上げることで情報に人がたどり着くことを難しくするという聖書のような方法だ。

こんなブログ、どうせ全部読むやつはいないなら、本当のことでも損なことでも書きまくって、スッキリしながらもその情報量で隠してしまえるということが面白い。

全部読んだら有益なことはどこかに書いてあるかもしれないが、それを俺のブログに求めて読み始めることはおすすめできない。もっと目的に応じた効率的な情報がどこか別のところにあるだろう。だが、そんな有り難い情報をどうやって作成するかというと、世の中にはきっと読まれない書きまくられた無数の草稿があるはずなんだ。

丸めて捨てる代わりにウェブにアップすれば、自分でも予想の付かない化学変化を起こすかもしれない。つまりだ。作家になるとか広告収入が入るという夢は宝くじが当たるような夢かもしれないけど、その先に何を成すかはまだ考えていないわけで、書きまくるうちに予想もつかない化学変化で未来を先取りして楽しめちゃうなんてことがあるかもしれないという淡い期待が俺をパソコンに向かわせる。

呪文にするとパルプンテだ!(でも実はマハマンの使い過ぎでレベル下がってるかも)