性善説を信じて上手く回っていた

「人間は生まれつき善であり、育ちの中で悪に染まる」という考え方の性善説(せいぜんせつ)と、反対に「人間は生まれつき悪であり、善に育てなければならない」という考え方の性悪説(せいあくせつ)というのがある。性悪説を「しょうわるせつ」と読んでしまった友人がいるが、彼は彼なりに「しょうわる」という国語を知っていて、倫理は知らないというだけの話であるが「しょうわる」と「せいぜんせつ」はたまたま漢字がかぶっているだけで相関関係があるわけではない。「せいあくせつ」は全て音読みであるので中国語に近く美しい日本語ではない感じもするのだが、ここでそこから蒸し返しても仕方がないので話を次に進める。

個人的には善と悪の定義は宗教倫理によって定まり、人間の素行は本能的な部分があるにせよ親の振る舞いを真似てゆくところから後天的に獲得する要素のほうが多く、生まれながら何にも染まっていない人間というのを作るとすると自然に放して自活させるか監禁するくらいしか無いと思うので、性善説性悪説もどちらも極論すると間違っているわけだが、古来そう考えられていたという話。

ところが、それを学校で学んだ折に自分は難関中学の出身であり、厳しい受験に耐えていたので善人が多く、素行の悪いものは退学処分されていくので何となく性善説を信じてしまった。今から思えば間違っていたのであるが当時はそこまでの理解は無かった。

それから、自分の望む道にまっすぐ進めたかというと人生の寄り道をして、色々な人間に関わるそのそれぞれを皆、性善説的に捉えていたので本当に悲惨な目にあった。

例えばの話になるが、藤田というばくち打ちとの出会いで俺は勝負事を色々と学ぶのだが、ストリートファイター系のゲームだけは自分のほうが自信があって、しかしばくち打ちというのは負けると分かるとナメられたくなくて勝負を仕掛けない。藤田のバクチ仲間で腕に覚えのあるものと勝負をさせられて横からいちゃもんを付けられるという日々が続いた。

ある時に餓狼伝説スペシャルの話になって、当時の俺の持ちキャラはダックキングというオレンジのパーカーにモヒカンのダンサーを使っていて、負けた時に「このキャラ辛いよ」と愚痴をこぼした。それを見た藤田は「ダック強くない?ジャンプ速いし超必殺技使えるし永久コンボあるし」と横からまくし立ててくる。藤田の使う不知火舞には俺はダックで勝てるので、その時は藤田はこう考えていると考えた。

まず、藤田は不知火舞でダックに負けるのはダックが舞に有利であるからで俺が藤田に腕で勝っているというのは認めたくない。藤田のプライドの問題を今の別の勝負にかこつけて語っているのだと。

ここで客観的な指標を上げておくと、5万部出ている商業誌のゲーメストでは餓狼伝説スペシャルはキムカッファン、不知火舞、ビリーカーンの順にトップ3であり、ダックキングはダイアグラム最下位である。ゲーメストによると不知火舞対ダックキングも舞有利だ。しかし俺が何故それを知りながら最下位のダックを選んでいたかというと、自分の腕があればその不利の全てを跳ね返して勝てるという自信と勝った理由をキャラのせいにされたくないというメンタルの弱さだった。

俺の最近の持ちキャラはテリーとキムカッファンになった。このあたりのキャラなら現役の韓国のプレイヤーとネット対戦をしても勝てる。まあ、ゲームのルールが最近のものよりシンプルで腕前にデジタルの天井があるため、両者の動きは極まって勝敗は読み合いというか運というか、それとキャラ相性でほぼ決まる。ダックキングは弱くてやめた。

そんな最近になっても藤田の言葉は心の片隅にある。今思うと藤田はもともと京都の人間なので性悪説的に逆言葉のなかで育った人間なのではないかと考えるようにもなった。性善説性悪説かはさておき、京都の人間は意地が悪いというのが通説だ。掛け算のことを九九(くく)と呼ぶのは昔の貴族が農民に計算をしていることを悟られないように掛け算という術を隠し、暗唱する時にいんいちから読まず逆さのくくから読んだ名残が掛け算の暗唱を九九と呼ぶことに残っていると学んだ。

5万部出ている商業誌にダイアグラムが載っているとはいえ、日本の人口は1億人を超えているので、知らない人というのは圧倒的に多い。その中で藤田はこう考えていると考え直した。

ミヤザワくんはダイアグラムを知らない。知らないから弱いキャラを取らせればラクに勝てる。そのためにキムや舞が強いことは隠してダックの長所をならべてダックが強いと考えさせよう。そして、見事に術中にハマってダックを使ってくれている。よし!

そう考えると藤田はとんでもない人間であるように思えるが、性悪説に基づくと自分に正直な人間が本来的に持っている悪意に忠実な人間であるといえる。仕事をせずバクチで暮らしているのだからそれは上手く賢くやっているのだろう。

しかし、性悪説に基づいてものを考えるとなると、今まで自分がしてきたことは全ての論理回路が反転しないと元通りの考え方には戻れない。そこで考えた末に性善説性悪説もない、倫理道徳と生物学的な人間科学と自然科学をすり合わせた考えに至る。

果たして俺は今後の人生において藤田と縁を切って暮らすべきかと考える。既にバクチをやめたことでほぼ付き合いは無いのだが、性善説によるとそれでも藤田という人間は憎まずに罪を憎むべきであり、性悪説に基づくのであれば藤田の悪行をさばくべきである。

そう、このブログではまだ「さばく」までには至らない。藤田はどう考えていたのだろう、ということを考え直すのみなのである。


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