40歳になりました

「四十にして不惑」から始まる堅い文章を書きたいな、と思っていたのですが最近やわらかい文体に慣れてしまって堅いカッコイイことを書こうとしても固まってコーヒーばっかり飲んでしまうんですよ。ダメだ、もう柔らかい人になろう。

そもそも高島俊男先生の「漢字と日本人」という本に考え方の根っこを揺さぶられて20年くらい経ちます。話し言葉と仮名で形作られる日本語とお侍の書き言葉に使われた漢字が混ざって、戦時中に文書の暗号化のために作られた漢字の熟語が後に教育に使われることで日本語の話し言葉と書き言葉が離れてしまって漢字を想像しないと言葉の意味がわからない頭に日本人はなってしまった、これを何とか正せないものかと教育者として悩んでいるという内容。

それを読んだ頃は本当に漢字に染まりきって、新聞のような漢字のいっぱい詰まった文書こそありがたみを感じる意味の集約されたものだと信じ切っていたのだけど、難しい言葉を使うことが大人びていて知的であるという考えをあらためて、言葉そのものが持つ意味、言葉の示すところを深く考えてゆくと、実は本質的なことを伝えるのにはやさしい言葉の組み合わせで充分で、やさしい言葉に置き換えてみると大した内容ではない文章はやはり大したことのない文章であると考えるに至ったわけです。

これがプログラマーという職業と絡み合って、コンピュータプログラムもどんなに複雑であれ究極的にメモリのON/OFFと加算、減算、シフト、AND、OR、NOTの組み合わせで出来ているので、高級言語で何かを示した気になっているのはつまるところ利用者であって、言語もまたビットで示された意味の集合体であるから、翻訳してみて大した意味のないうわべの言葉をいくら積み重ねても本質は示せない。

日頃は忘れているけど、20歳の頃に何を考えていたかを思い出すと、テレビゲーム好きが高じてプログラマーになり、本職のプログラムの勉強に正面から挑まずに雑学ばかり溜め込んでいることこは年齢が倍になっても何も変わってはいないのですが、言葉がやさしくなったという点に値打ちがあるんだよ、と自分で言ってりゃ世話がない。

それでも暮らしていると外国から意味の噛み砕けない新しいものが飛び込んでくることは日々珍しいことでもなく、それをひとつずつ分かるまで噛み砕いていると、あっという間に置いてけぼりを食らいます。流れについていくためにはどこか分かったふりで新しいものを使うということも要りますが、その中に分かるまでとどまる人が居ても良いのかなと。


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