俺の辞書の「瞑想」意味を考えてみるよ!

楽しみに読んでいたブログがひとつ終わって、ひとりで仕方なくブログを続けているのだけど、いつも「イイね」を押してくれる「たまにチェンコ」さんが仏教好きみたいなので、俺もなんか仏教ぽいっことに寄せていく! 

めいそうさう0冥想スル目を閉じて心を静め,無心になって想念を集中させること。にふける〔明治期に作られた語〕 

 仏教というと瞑想である。お仏壇の前に座って目を閉じて木魚とか鐘をならして手を合わせてしばらくじっとする。子供の頃は大人がみんなそうするから、真似してそうした。心を鎮めるとか、無心になるって言われてもどこか分からないところもあるだろう。

ここで、瞑想という語を漢字ふたつに分解してみよう。

暝とは。ご冥福をお祈りしますと言うと死んだあと天国に行けますようにと言うような意味である。冥界とは死後の世界のことである。このように冥が付くということは死を意味するということであり、中国語では「暝」に意味があるかもだけど、日本語でメイというとギルティギアの海賊少女のことであるが、漢字で暝と書く時は死に近い。

暝を想うわけだから、死んだと思ってみるということでは無いだろうか。つまり、シャ乱Qの「俺が死んだら誰か泣くかな寝る前たまにそんなバカな事とか考えたりした」は俺の辞書では瞑想なのである。

死んだら、どうなるかは分からないが、地獄や天国を想像している状態はまだ死が分かっておらず、死んだら無になるということが悟りの意味ではなかろうか。

しかし、人間は無は想像できないものだ。「俺って今考えていないぜ」ということを考えたりしてしまうものだ。まあ、形だけでも目を閉じて祈るうちに言葉をイメージせずに暗闇の中で聞こえる音に身を任せる感覚になることもあるが、俺のイメージとしては無とはデカルトの「コギト・エルゴ・スム」つまり「我思う故に我あり」の発見に近い。死をイメージして目を閉じ、暗闇の中で自分を見つけるのだ。

まあ、そんなだから仮面ライダーゴーストの「我等思う故に我等在り」は人はひとりで存在するものではなく他者との関わりの中での存在を見つけているわけで、我思う故に我ありという個の発見では死は無を意味するという世界観になってしまうが、我等思うというつながりへの気付きは死は細胞がひとつ死んだとて生物が死ぬわけではないように、群れの中での個の死が群れの滅びを示すものではないという気付きなので、一層深いと思うんだよね。