何故「生き残ろう」と考えるか

バカみたいにゲームで遊んでいるのは生命、宇宙、社会などに自分がどの程度の影響力を持って関与できるのかと考えた時に、なかばあきらめたところから与えられた命なら「人生楽しまなきゃ損」みたいに思ってる所があるから。

そんな俺でもネットで生命科学の知識をより納得できるものにアップデートすることはある。ユーグレナの研究をしている先生の趣味の生物の話が面白かった。生物に優劣や高等下等という考えをするのはキリスト教的な人間は人間であるゆえ優れているという自己言及的な出発点から全く進歩しておらず、生存サイクルで考えると人間はまだ成功か失敗かわからないというお話なのだが、その話にケチを付けるなら「生物の定義は生きていることである」みたいな自己言及があるのではないか。

なんか太陽の燃焼は無機的な化学反応なのかもしれんが、恒久に燃えているのは生きているが如しで、生命が誕生する温度とかも太陽から得ているわけだし、生態系のサイクルが長く続いても太陽の燃焼が終わればおおよそ死滅する。だから種の保存みたいなテーマもどこかに限界があって、そこを自分の人生の目的にはしていない。

俺が生きているのは「物心ついたら生きていて、死ぬのは怖いし勿体無いから」なんだろうと思うし、どんなに生命科学的な理屈をつけても生命の観察者としての自我の目覚めなんてのはその程度のことからしか起こらないと考えている。

もちろん、俺とて死なない程度にというか苦しまない程度に飯は食うし寒いと暖房入れるし夜は寝るし人としての生命活動は自主的に維持した上で余暇としてのゲームを楽しみにしているのだが、ゲームの勝ち負けに一喜一憂するのはまだまだ勝つほうが優れているというキリスト教的な優劣の延長線で物事を考えている部分があるなとふっと気付いたんですよ。

まだまだ哲人のようで哲人でない。もっとルール上の勝ちに喜ぶのでなく、思考する上でのシンキング・ハイみたいのを求める人になったら・・・ただうわの空でヘラヘラ笑っている変人じゃないですか。そのゴールはちょっと違う気もするなぁ。

ただ、もうコンピュータのが強いと決まったゲームで人間同士の勝ち負けに優劣を感じて喜ぶのって、ちょっとレベルの低い争いをしている気がし始めてるんよね。

だけどよく考えたら、勝ち負けに拘るのがレベルが低いってのも結局はメタ的に優劣を決めているわけだから答えのネストだ。入れ子になってるだけ。やっぱゲームは勝敗があって互いに勝利を目指すから思考と思考がぶつかり始める。それが他人同士でやるのと自分の頭で両者の立場を考えるのとコンピュータみたいな道具でやるかの違いだな。

やっぱ優劣って2値があって、優を目指すって方向付けのベクトルがあるから思考が始まるんだ。そこを目指さないと「人生自殺でええやん」に反論できなくなる。生きていて生き残りたいから考えるってのは思考の方法でありながら目的そのものでもあるわけか。生き残ろうと考えてこそだな。


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