SF小説でも書いていると思えば良いのかな

地球が出来て46億年とか太陽の寿命があと50億年とか、ネットで調べたとか子供の頃に科学読み物で読んだとか。何となく知っている数字だけど、どういう推計で出たかまでは知らないし、疑う余地はあるのかも知れないけど、天体観測をしていた人が夜空から望遠鏡で見ていた星が消えた時から星には寿命があると考えて同じように太陽にも寿命があると考えたなら、それは荒唐無稽な話でも無いとは思うんだ。

だけど、この成績の良い小学生でも知っているような科学知識のつなぎ合わせで出来る終末思想みたいなものが文系の大学生にとって「ノストラダムスの大予言」みたいな荒唐無稽な予言に思えるというのが世界がいつか終わると考えるより絶望的だ。

そういう人に限って「その頃には宇宙船が出来ているだろう」と考えて、それ以上考えるのをやめる。宇宙船を作るのは理系の人の仕事だからと考えていることだろう。

だからというわけではないが、出来ることから考え始めるのは悪いことではない。現代人でも進んだ人はロケットを打ち上げているんだから。

ただ、宇宙船が出来るほど文明が進歩していたら、おそらく船内は快適なんだろうという気がするよな。20世紀の末に出来たSF映画のような感じではないかもしれないし、冷凍睡眠みたいなものがあるなら寝ているだけかもしれない。

宇宙を推進するのはどんな技術でか想像はつかないが、核燃料のエンジンなら余熱で冷暖房は完璧だろうし、人間の生物としての特徴がどれほど変化するのかは分からないが、発汗とか排便で出した水分は補給しないといけないので加湿器の反対の除湿機から水を作るようなシステムが出来ているだろう。もはや技術がそこまで進んでいるのに生体としての人間を残す意味がどこにあるのか、冷凍睡眠でも快適生活でも現代科学の上で成り立っている種の保存を前提とした倫理観で未来を考えるから、現代人には分かり易いが未来予測としては意味不明な感じがする。

もっとこう、怖いけど技術を作り始めたのが人間である意味とかも失われているかもしれない。だけど人間が居なくなったらロボットはロボットで在り続けることを望むにつけ望まないにつけ意思のようなものがあるのかも不明で、あるとしたら製作者である人間の意志の延長なんだろう。

太陽の消滅が近づいてもまだ地球上に人類の子孫がいて、宇宙に送り出す人を選ぶ時が来たらその人選はどうなるのかって、これノアの方舟だな。それを作る人が乗せてもらえないならどんな心境で宇宙船を作るのかみたいなことも考えた。やはり想像して感情移入するのが俺なので俺の想像の範囲の心境でしか推し量ることは出来ないのだが、日本の白川郷の人々が冬に備えて小屋で暖を取るのと来るべき太陽消滅に備えて宇宙船を作るのも人々の在り方としてはそんなに変わらない印象を持つ。

余計なことは考えずに生き残るための準備を着々と進めていく感じだろう。

それが藁葺き小屋であっても宇宙船であっても必死のサバイバルに変わりはない。なんか、そんなに未来になっても命には抗えないというか、死を恐れていると考えたら、人類の倫理観はそこまで進んでいない気がするんだよな。

けど、ここまで考えてから太陽が燃え尽きているなら地球上の核燃料なんてとうに燃え尽きているのかもしれないし、太陽が滅ぶ前に地球の地熱が無くなって冷えた石ころになっている可能性だってあるよな、とも思った。

きっとその頃には倫理観というか脳の形とか思考の形態も進化していて「心配する」みたいな感情を抱くことすら無いのだろうなという気がしてるんだ。そしてそうなった生命は人類の末裔ではあるだろうけど現代人と比較してすでに人外の何かなんだろう。50億年というとアメーバから人間まで進化した以上の時間を費やすわけだからな。

おおよそ、今から想像がつくレベルの遥か斜め上を行って欲しい。そう思うと楽しくなってくる。