今日のネットサーフィン(聖書研究をメインに)

山羊座なので何となく山羊の顔で描かれる悪魔とは仲が良い。

思い出せば初めて買ったマジックザギャザリングの箱から出てきたレアカードが奈落の王だった。あれな、偶然なのか悪魔が入っているのを箱の順番みたいなもので暗に悟っていたものからハズレくじとして引かされたのか今でも分からないが、近所のオモチャ屋のキューピー堂ではカードダスなんかも順番を把握して何枚目に当たり(ガンダム)が来るのかだいたい分かっているやつが回してハズレゾーンになると回さずに誰かが引くのを待っている、みたいな話を聞いたとこがある。俺の初めてのカードダスはデザートザクで、ゲーム機やロボットを買ってくれる親ではあったがビックリマンやカードダスは無駄遣いだからやめておけと言われてバイトしてから最初に使った小遣いはそういった親から辞めさせられたつまらないものだったなぁ。

今ではそういうものがインチキに満ちていてお金の使いみちとしての価値は微妙だと思いながらも、姉の子供がガチャガチャなどを回したがったら小銭入れから100円玉は出してやる。早い内に騙されておいたほうが良いだろうと考えているからだ。同時に回して何が出るのかを期待しているのか観察して探るのも面白い。一番上のお姉ちゃんはプリキュアキュアマリンが欲しいということが分かったので、色々探してお菓子のおまけで付いているキュアマリンの人形を無事にプレゼント出来たが、2人目3人目となるとそういう風に気配りをしたお姉ちゃんが学校で変なことを覚えてきて可愛くない子に育ってしまったことから細かい気配りをせずガチャ玉で何が欲しかったのか探ることをしなくなり、俺が細かいおもちゃをたびたび与えることでクリスマスなどに大物を与える義兄さんより好かれたことに嫉妬してガチャ玉を欲しいのが出るまで回しまくらせるというような家庭になったらしく、俺のひそかな計画は全て台無しになった。

それで何だっけ、そうだ、悪魔だ。悪魔の顔が山羊に描かれるのはどういう暗喩なのかということはその筋に興味がある人なら知っているだろうから自分で調べてもらうとして、どうしてキリスト教にはそういった暗喩表現が多用されるのかについての研究をしている人がいて面白かった。コラムが読み切れないほどあるのだが、順番として検索にかかって出てきたコラムが面白くて熟読し、やっと終わったと思ったらトップページへのリンクが有り、押してみたら同じようなコラムが年間100本くらい書かれていて古いものから書籍になっていっているという。

神学なんてものが現代日本では形骸化した無意味なものとして外部から見られているようにも思えるが、細かい律法より法の思想としての聖書から入ったほうがなぜそういう法があるのかの理解に近くなると思うんだが、日本では法よりも義務教育として教えられている道徳があって、それらは儒教などの東洋思想と聖書という西洋思想がとろけあったなんとなくの善の規範であるから、そういう「あいまいなもの」があいまいなまま重んじられているがゆえに、いざ法と向き合った時に極端な解釈をしてしまう人をどう扱えば良いのかハッキリしない。

つまり、みんな「なんとなく」右に習えでそうしてきたから「何故か」が弱い。

その「何故」の答えを求めるべく、聖書も読んでみるかと自分で書店で買った。その後に近所の教会に足を運んだのであった。

悪魔のカードを引いてしまっていじめられっ子になったことがある者は神の教えへの距離が近いと思う。みじめな思いをしたからこそ、そういう境遇のものへ親近感を抱き救いの手を差し伸べる。これは親鸞が「悪人ほど悟りに近い」と説いたのと近いだろう。

しかし、世の中が豊かになって恵まれて育ったものが学校で貧乏な子をいじめる時、どこに共感を気づかせる接点があるだろうか。

悪魔から神まで近かったと書いたが、ひとたび神の教えが身にしみても、どこにでも悪魔の誘いは手を引いている。自分の子供にカードダスの当たりを引いてみせたということはよその子にハズレくじを回しているに等しい。社会での役割が多種多様であれば、それらはカードの当たりハズレのように遇不遇の差があるだろう。

万人が納得できる落とし所というのは聖書を理解しても難しいのではないだろうか。