「差別をなくそう」という考えは不合理極まりない

初等教育である小学校で「差別はいけません」と習ったので、なるべく差別はしないようにと思って生きてきたが、どうしても無意識の先入観みたいなものはある。そして同時に自分が差別を受けた時に自分は差別をしていないのに相手から差別を受けるのは理不尽だという論理でモノを考えていたんだけど、たとえば肌の色が白黒と違っているのに先入観を持たないで見れるのって色盲なのかと。

そこに頑然としてある差別は第一印象としての自然な捉え方であると思い始めてから、受ける差別を理不尽には思わなくなってきた。まあそりゃ、そう思われるよなと。差別を無くす方法として、自分が差別をしないようにするからお前も差別をするなという無理強いでは差別をする側の人間に共感を持たせるのは無理ではないかと。

ただ、歴史の順番として差別があるから奴隷制があったのか、奴隷制があったから差別に発展したのかは注意しないといけないとは思う(このへんは勉強中なので掘り下げない)

差別というのはする側の先入観てのはもちろんあると思うけど、同時に差別をなくす教育を受けたものが別の原因で受けている何らかの害を非差別意識に理由づけして解決できる問題を解決できない問題にすり替えてしまうという側面もあるとは思うんだ。

とかく、出発点が不合理なら解決が合理に向かうはずがない。差別はあるし、されて当然。まず肌の色や性別や年齢や学歴に年収に服装に言葉遣いなどから受ける第一印象から親密な関係に至るまで、平等で対等であるという誤解をしたまま出発するよりはどのような偏見を持たれていて、それは自分の所作で解消できるものなのか相手の意識を変革せねば成せないことを企んでいるのかということも考えないといけない。

個人として差別をしまいとパーティに色々の人を集めたばかりに、かえって差別を浮き彫りにしてしまったというような事案が過去にあって。一足飛びには解決しない以上、現実を受け止めて少しずつ改善するしかないんだよね。差別をする人間のほうが自然に近いなら、人為的にそれをどうしたいかとか、どういう状態になったら差別を受けていると考えている人間が差別を受けていないと感じるように変化するのかって問題を合わせて考えていかないとダメだと思うんだよね。ちょっと不合理でもさ。