「棍棒のトロール」という暴力表現と破壊衝動

マジックザギャザリングというゲームは果たして面白いのか?

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俺はこの写真のカードが好きで、上手く組み合わせて使いたい。対戦型のゲームなので当然のごとく邪魔は入るのだが、互いに最大限ジャマをしあうのが果たして面白いかというと、それには多少の疑問がある。ノンクリで石臼だけで勝つデッキなんかをイメージすると、まあ勝つのが楽しいという意味では楽しみもあるんだが。

そうでなくて、テーブルの上に怪物を出し合ってどっちが強いか決めるメンコのような遊びに複雑な手順を設けて知育玩具にしたものがカードゲームなので、俺はもみくちゃのケンカをしたいと思っていても社会に暴力はいけないというルールがあるので、ルールという手続きを踏んで勝ったほうが「棍棒トロールでアタック」といってカードを寝かして、喰らった方は「負けました」というわけだ。

本質的に知恵比べで勝つ意味は勝った時に巨体の化物になって棍棒でぶん殴りたいという欲求があるんだと思ってる。昔は赤のカードが好きで、放火欲求があったのかもしれない。

カードを集めて、自分が強いと思うデッキを選んで、カードを繰って手札にするという運か奇術か超能力か、あるいは確率か、それをテーブルに繰り広げてポーカーやチェスのような駆け引きをする。その手続に夢中にさせるため参加費3000円で1000人参加して賞金200万円という宝くじのようなインセンティブが隠されている。

全部のフェイズを引いた目で見て良く考えるととんでもないインチキなのだが、まず買うお金を惜しまない。10万でも20万でも勝てば200万返ってくると勘違いしている。それらは運否天賦ではなく知恵比べであると誤解している。しかし、知恵比べとして冷静にゲームを分析しているかというと、棍棒でぶん殴るとか稲妻を落とすという暴力的な表現が「魔法である」とか「魔法使いとなって怪物を使役している」という手続きを踏んでいることで、自分が暴力を奮っているわけではないという予防線を引くことで、内在的にある破壊衝動のぶつけ合いを知恵比べであると錯覚させている。

恐らく、棍棒トロールを使いたいというのはゲームプログラマーになりたいと思ったのと同じで、ドラクエIIロンダルキアギガンテスに痛恨の一撃を喰らって「そんなの反則だ」という小学脳への刷り込みが「今度は自分がギガンテスでぶん殴ってやれる」とドラクエVでよろこんだのと同じような感覚なんだろうな。

次は全然違う角度

マジックザギャザリングを上手く楽しむには4人から8人でのドラフトが良い。白青黒赤緑の5色を各々で取り合って、自分の色を決めて戦う。色が被ればカードを分け合うことになるので弱め合うことになり、弱い色でも独占できれば有利になる。

そういうゲームは得意な方だが、自分が何をしたいか自問自答すると独り占めをしながら遊び相手を探しているという矛盾のようなものがある。

白緑青のバントカラーを取ってしまうと、必然的に赤黒の相手とふたりで遊ばないと色被りが起こる。そして、カードをその二通りに分け合うと出せる個性なんてものは限られるし、怪物同士が殴り合うのではなく騎士もトロールもジーニィも稲妻と恐怖のカードで相殺されてしまって遊べない。それは果たして楽しいゲームなのか?

だいたい、赤黒が勝つように出来ているが、おそらくそれでバランスが取れている。緑白青は自然、人間、神秘のイイモンで赤黒は暴力、陰謀でワルモンだから。

遊戯王の出だしは海馬瀬人が悪者だったがいつのまにか遊戯くんが闇遊戯になっている。主人公が闇ってマンガがモラルを語る少年誌に載っているわけだからな。

プレイヤーとしてやりたいことがあって、それが実現すると楽しそうで、阻害されて面白くない思いをするならば、そこは自分がゲームクリエイターになって自分が楽しいと感じる体験をプレイヤーに共感してもらえるようなゲームメイクは出来ないものか。

どんなルールを組めばみんなで楽しく遊べるだろうなと考えた時に答えはもう文中にあって、4人から8人のドラフトをする他はないんだよな。ドラフトの面白いところは「俺は棍棒トロールでぶん殴る係」みたいのをドラフト前に宣言する必要はなく、裏返ったカードの取り合いの中で「今回は誰がどの係で来るだろうか」と読み合うところにもある。一通り、色々を役を取ってみて、最後に落ち着いた所が「弱くてもイイモン」であって、その楽しかった思い出の残骸、産業廃棄物としての手持ちのカードを再び面白いものにするリサイクルは出来ないか。

時々引き出しにしまってあるのを取り出して眺めたりする。