免罪符の時代

中世ヨーロッパでは善と悪は教会で決められていて、悪いことをしても教会で免罪符というのを買えばお金で罪が許されたという。これって現代でも保釈金とかあるわけだから、完全に倫理とお金は切り離されたわけではないよね。

そういう自分も高校の時は反骨精神に満ちていたけど、いつからかお金に操られていた。会社ってのはお金を稼ぐために集まってんだから営業が取ってくる注文は絶対で、ノルマは死守されるべきだ、みたいな。

プログラマーとして働くうちにプログラマーシステムエンジニアをごっちゃにした人から頼まれて仕事をするようになって、銀行業務よりATM作るほうが偉いとか、薬局業務より電子カルテ作るほうが偉いとか思っていたけど、世の中は銀行員の方が機械を作る業者より身分が高いわけで、身分が高いゆえ扱っているお金が大きいところからどうにかこうにか機械でやりますからとお金をとってきているのであって、仕事を肩代わりするのは偉いわけではないということ。

そんで、電子カルテならユーザはお医者さんなわけで、社会でお医者さんは一番偉いけど、じゃあお医者さんはどこからお金をとっているかと言うと患者さんと税金が3:7くらいなわけだからお金払ってんだよと患者さんが威張るってもんでもなく、自分が患者さんの立場になることだってある。銀行員だって預金をしてくれる人には低頭平身に接するじゃないか。そして自分も銀行にお金を預けている。

そういう風に考え始めた時に自分は仕事をしている。だから偉い。という図式が無くなって、仕事をしているとかお金を稼いでいるとか、そういうことは偉くないと思ってニートになってしまった。それを今こうして書き出してみると、お金持っているのが偉いってのは持っているだけで偉いわけではなくて、不倫にしてもソープランドだったらお金で買えてしまう。モノも食料も作らなくてもお金を払えば買える。

免罪符ってのは売ってないかも知れないけど、福沢諭吉の描かれたこの札こそが現代の免罪符では無いのかと。つまり元々の自分は罪深く免罪符がたくさん必要だったが、近頃では「働かざる者食うべからず」という善悪感から見た罪を償うために食費を出すのみである。