世の中は格差社会で上流にあがるために子育てに必死の人もいるが。
俺なんて先代からの遺産をわがものにするために血族間の醜い争いが繰り広げ、その中で育たないように甘やかされて大きくなったものだから、いつの間にそれが分かるようになったかと恐れらてれ自分のところにも取り分を回せるようになるまで、ワケの分からないものから学び取った。
と思っていたが、実はそうでなく俺がワケのわからない子供知識のカタマリであることを察知した誰かから、ワケのわからないオモチャの対価として少しずつ暗に現状を伝えてもらったと恩を感じていたので、いっぱい買ってお返しした。
「ドラクエというのはあまり良くないジュブナイルである」と言われると、まずドラクエが分かる時点で人を選ぶ。そしてジュブナイルというのは日本語にすると簡単な言葉なのであるが、辞書を引く癖がなく文脈から意味を読み取るタイプの類推国語君では意味がわからない。マメに辞書を引くと分かる簡単な暗号になっている。
英語が簡単に読み解かれるようになると、次はフランス語などが使われる。
俺はブログでは自分のことを「オッサン」と書くが、親戚の子供が親の口の悪いのをすっかり真似て冷静になると意味などまだ分かっていないのだが、気に触ることを吹き込まれたテープレコーダーのように機能して、イラッとしてぶん殴ってしまった。
その子が最近家に遊びに来て、俺のことを恐る恐る見るので殴っちまったのはなぁと思っていたら、ママに耳打ちで「ねえ、女の人?」と聞いていた。
もちろん、親戚一同は爆笑だったのであるが、俺はブログで自分のことをオッサンと書くのでオッサンだと思って探してやろうとされるから見つけてもらえないのであって、まあオカマのつもりはないがヒゲをちゃんと剃ると中性的な髪型と服装である。
そんなオッサンが女子高生好きというともはや性犯罪を連想させて山口達也も捕まるくらいのダメな性向なのであるが、リセエンヌと言ってしまうと何だか芸術用語みたいだ。
そんで何だっけ。先にタイトルを付けると話を転がすのが難しいんだよ。アーティストの寿命だったな。アーティストという言葉は直訳すると芸術家であるのだが、とりわけ日本の中年層が若年だった頃にはとりわけ音楽家で大衆音楽を扱い、音楽だけでなくみたくれも含めて売り物になっているようなロックバンドの人のことであった。
若者文化として登場したロックは封建的な階級社会からは異物として排斥されかかったが、伝統文化が大衆まで浸透していない敗戦国の日本で若者は抑圧を受けずに存分にその新しい文化を楽しむことが出来たという背景があるので、その子供世代にはむしろ遺伝継承のごとく大衆音楽が与えられていた。
基本的にロックもポップスも歴史や伝統はそこまでなく、新しいものとして受け入れられたものなので、新しさを演出するためアイドルやスターという呼称は親世代のものとしてアーティストに塗り替えられ、カップルやアベックという言葉は彼氏彼女に置き換えられた。親世代もまた、子供世代がどんな言葉を使うかということに伝統の継承以上に興味があり、自由が尊重された。
ゆえに世襲や伝統というのは日本ではマイノリティな思想なのである。
世代交代がある以上継承されないものは存続しないので、親が聴いたものを子にも聴かせるということをしない限りは1代限りで無くなってゆく。だから親が子を持って子が興味を示すものだけに興味を奪われると、その親の成長期のものは継承されない。
ここで俺が興味を持っていることは、自分の感性はテレビで何をやっているか以上に親が何を聴いて育ったかであった。親はテレビばかり見ているので、ミーハーだし親に自分を見てもらうためには自分がテレビに出るしか無いので野球選手か歌手になるしかないと思っていた。幼い頃に自分を育ててくれたのは祖父母、つまりじーちゃんばーちゃんだ。
それが、ミーハーに見える両親も流行のビートルズやカーペンターズを聴いて、デートしてカップルになってから毎日酒を飲んでテレビを見るに至ったことを振り返ると、これは何というか映画バックトゥザフューチャーに示される暗喩そのままになる。
勉強しろとは言うが勉強せずにテレビを見ている。では親は過去にはどのくらい勉強していたか。そういうことが知りたかった。
そして親は子供には新しいものを与えたいと思っていたようだが、親が聴いていたビートルズやユーミンを後から揃えて聴いてみたりした。親がそれらに既に飽きていながらも、日曜の旅番組のゆっくりしたところでバックにビートルズがかかっていて「とろん」としていることなどにも気がつくようになった。
ロックもポップも旧封建社会が攻撃したのはそれが伝統にとって危険であることを察知されたからであるが、親から見て子供が楽しんでいて「どうぞどうぞ」であるものが序列を脅かす危険なものであるはずがない。
俺はどうにか序列をまくろうとして新しいものを探した。酔ってテレビを見ている親が嫌うことが自分への褒美だった。
だけど、そんな俺でも子供の頃にリスペクトしたミュージシャンやゲームプログラマーへの熱は冷めている。どちらかというと、自分で背負っている荷物のような感覚だ。
そんなものを下の世代に継いで欲しいなんてことは思わなくなったが、それでももし自分の思想を継ぎたいではなく知りたいと思われることがあるのなら、俺が自分で「本当にこんなものまで関係あるのか?」と思うようなくだらない物まで俺の一部分であるわけだから、俺が自分で他人に対して何かを選んでそれだけを与えて凝縮しようなんてことは考えてはいけないかもしれない。
話の最初の方に出したジュブナイルとは子供向けの話という意味だ。大衆文化というものは老若男女を問わず親しまれるもののことであるが、子供には子供向けの分かりやすい構造を持つ教育に適した題材があるもので、ひねくれ者から出発しても育つように技をすり替えてひねくれた子供向けを受け取って今に至るのだなと。