万人の万人に対する戦い

高校倫理って哲学というよりは哲学史みたいなもんじゃないかなって今からでも思う。哲学というのはお金のかからない学問で、ソクラテスだけでも一生考え続けることが出来る。
そして「なぜ」にハマった俺は社会科が倫理で理科は物理にハマった。多分大学の単位で言えば「理学」だけで1単位「哲学」だけで1単位で他はすべてダメで留年して中退してたんじゃないかと想像する。まあでも、なんとなく生きていくための必要性を完全には無視していないで考えていても腹が減ったらメシを食うことを思い出して食事に行くように、「そろそろヤバイな」という感覚だけで持って資格をとったりバイトしたりで食いつなぎ、何の間違いか知らないがスーツを着て会社員をしていたこともある。だけど会社員としての自覚や責任感があったわけでなく「なんで会社ってのは決まった時間にタイムカードを押さないといけないのだろう」などと考えたが、誰に聞いても「そんなの当たり前やん」くらいの答えしか返ってこない。なぜだか腑に落ちる答えはなかなか得られなかった。
しかし、思考とは探索のようなものであるというコンピュータ科学がヒントになり、考えてもわからないことを一旦考えるのをやめて、外堀から埋めていくことで消去法的に本丸が浮き彫りになるということも有り得るなとなって、嫌いだった社会科や古文を中学レベルからやりなおしてみた。それから、勉強で分かったわけではない。30歳を超えてから仕事をやめて勉強を再開したせいでお小遣いが無くなって趣味の付き合いが無くなり、人間関係が変化していく中で歴史が分かるようになってきた。理科の実験は理科室とフラスコだけで出来るものもあるが、歴史の実験は自分の人生を通してしか出来ないものだ。賢者は歴史から学び愚者は経験から学ぶ。俺は歴史からは学び取ろうにも現実とのというか、移り変わる現在との抽象的な相関関係が分からず、失敗の人生を歩みながら自身の経験として歴史の教訓が境遇と近くなった時にようやく歴史を理解し始めた。
とかく、人は建前としては親切でも利己的なものだ。根っから優しい人というのは子供の頃から王子様やお姫様のように育てられ、何かの対価として得たものでなく生まれつきのものを他のものに与える主従関係を持っていて、召使いの商売としての表情が穏やかなので穏やかな表情が板についている。しかし、貧しい子供は表情を意図的に使い分け、こういう顔をしたら哀れんで恵んでもらえる、というか「哀れんで」を理解しているかは分からないが、恵んでもらえることは多分経験的に分かっている。
そんで俺はと言うと王子様のように育てられた表情筋のコントロールが苦手な人間で、何もしなくても顔に出れば周りがそれを読み取って解決してくれたものだから、感情と違う表情を作るという器用なことが出来ない。それでも福沢諭吉の顔写真を3枚位出せば何事もなかったのように暮らせるのだが、どうやらみんなそうではなくて貯めておいてもっと良い家を買おうとしているらしいと分かった。大工さんに成れば家は自分で作れるかというと、そうでもないみたいだ。材料の調達やら二人がかりでないと出来ない作業に専用の道具もたくさんいる。土地を確保するにもお金がいる。お金で誰かが住んでいるところをヤクザにどかしてもらって代わりに住むか、空き地を買うしか無いようだ。
つまりは先祖から譲り受けた土地は先祖がどう獲得した土地なのかはさておき、その人の財産で、身分制によって決まっていた区画が金銭で売買されるようになり、取り合っているから生活費以上に土地のために余剰の資金を貯めたものが立派な建前の家に成り上がれるという自由経済競争社会は刀ではなく取引というルールで殺し合う戦国時代のようなもの。殺しはしないが真綿で締めるように生きているだけで毎日お金が減っていく。農家でコメを食うのはそうではないかも知れないが、市街地は常にそうである。そして取引には裏切りがつきものであり、法と罰則をはじめとする種々の契約があり、会社員になると9時に出社するというのは社則であったものが習慣となってわざわざ取り決めなくても守られるものとして通じている当たり前なのだ。もっと法規のしっかりとしたゆかりのある会社なら社則としてしっかり残っているかもだが、そうではなくいい加減な人でもお金があると会社を作れてしまって、社則が無いにも関わらず従業員が仕方ないと思って守っている常識で社会が回り始めている。
俺は、その中で王子様から従業員という低い身分におとしめられて、経営者と戦うために法務局に通ったのだが、疲れて仕事をやめて王である親父の仕事を見てみると、経営者なのであった。どうやら人々はみな家族という小さな社会の集まりで出来ており、夫婦喧嘩や兄弟喧嘩が絶えないように一国一城の主としてのお父さん同士の仕事というのも日々たたかいなのである。お父さん同士が戦いで、夫婦も戦いで、子供も戦いならばこれはホッブスリヴァイアサンで提唱した万人の万人に対する戦いであり、自由平等の世の中に絶対的に信頼できる味方というのはひとりとしていない。これが社会の西洋化で日本にもやってきたソクラテスの次のページの哲学なのだ。