相対性理論に於いても絶対はある。存在するだけで絶対である。

相対性理論が流行った頃に哲学的に「絶対という概念は使うべきではない」というのが流行った。
みんなが量子力学とかを学んだわけではないのに子供の間で「絶対」という言葉を使ったやつが負けゲームが始まったようなものだ。しかし俺が大阪でひとり暮らしを始めた時に聖教新聞を勧められてその集金に来たおばちゃんが創価学会への勧誘を始めて「南妙法蓮華経と唱えれば何でも叶うの。絶対の真理なの」と言って聞かない。俺は頑固な人が面倒くさくて苦手で押しが弱いところがあるが、そういう意味で頑固で押しが強いものに相対するものが絶たれてしまったら対が絶するわけだから絶対だ。言葉遊びの範疇だが。
では相対性の物理学の中においても起点を決めて何かが条件を満たすと必ず起こるという境界条件が定まればそれは条件下で絶対となるんだよな。条件が付く以上は絶対ではないという反論もあるだろう。条件下での絶対。では相対もまた条件下のものではないのか。そうなると条件というものの存在は絶対になる。条件がないという観察のみの状態においても観察者の存在は否定できない。つまり絶対は有る。
それでも流石に「南妙法蓮華経と唱えれば何でも叶う」を命題にしてそれを具現化するために人生を捧げる気にはなれない。聖書に書いてることを本当にするために戦争までする人々がいるのだから「南妙法蓮華経を唱えたけど叶わなかった」という人を皆殺しにすれば生き残った人はみな「南妙法蓮華経を唱えれば何でも叶う」というようになるかも知れないし、その条件下でそれは人為的な絶対に近い意味を持つだろう。意志の力である。皆がそうしようとしているからそちらに向かって力が働くということは間違いない。
その頃の俺は人が「絶対」と言うと「絶対はない全ては相対である」と絶対を否定しながらも科学は絶対であると信じているという二律背反を自分の中に含んでいたんだ。絶対はなく相対であるという条件が絶対であれば相対性の条件の前の段階で絶対を認めているということに気付き始めると、なんかもうちょっと考え方ゆるくなってもええんちゃうかなと。まあ、言葉遊びの域は出ない考え方なんだけどね。