カルドセプトリボルトのクリア後をもっと深掘りする

50戦39勝で勝率78%オールクリアで俺のカルドセプトリボルトは一旦幕を閉じたのですが。
暇なのでさらに勝ちを確固としたものにつまり80%以上の確率に出来ないものかと考えはじめました。
近頃、俺の周囲でもカードゲームに対する理解は進んできて「子供じみている」だったものから「将棋のように社会に認められている」になったのですが、それはそれで誤解で棋界のようにプロの組織があるのでなく賞金大会があって入賞経験者がお店の宣伝としてレジ打ちの店番とは別にゲームをする係で雇われているというのが実情。そこまで理解が進むと3DSカルドセプトなんていくらやってもお金にも自慢にもならないものでなく格闘ゲームやマジックザギャザリングなど社会認知のあるゲームに参加して欲しいという圧力もかかりはじめているのですが、ゲームは遊びだから自分がやりたけりゃ3DSでも良いんじゃね?という俺の気持ちはまだ届いていないようです。
麻雀でもプロの存在が認知されたのって最近のことで「運で決まるものじゃないの?」が一般的てかルールも知らないで「怖い人のする博打でお金を取られる」みたいなイメージから競技になったのも最近のこと。まだまだ、プロが居る世界という認知だけが広まると強い人を見つけてその人を囲って戦わせる剣闘士とコロッセウムのような社会構造から抜け出せていないんですよね。どちらかというと「子供っぽい」という批判を否定しながらも子供のほうが怖がらずにゲームに参加する好奇心があって、実情をより良く知っているかなと。
そう、大抵のファミコンゲームの大会は大人が宣伝として名人のような役を買っていても中学生くらいが一番強いというのは良くある話。
それは日本社会に大人が遊んでいることを許さない共産党のような勢力があったからだと思うんですよね。三国志春秋戦国時代を勝ち残った秦国は戦争の後に公共事業をどんどんやろうとして嫌になった国民が離反を起こして滅んだそうですが、だからと言うわけでもなく「大人が遊んだって良いじゃない」と。ファミコンで中学生が勝つのって中学生が頭の良さのピークだって説もあるけど、そうでなく遊びに没頭できるピークが小中学生だったって人が多いからじゃないかな。
まあ、話はここまででブックを公開します。
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「ゲームは損得なしでも楽しめるもの」と言うと「損得なしで遊べるのはお金持ちだけ」と強弁する人がいるけど「ゲームで得するを立て看板に参加させて貧乏人がさらに損をする」という構図から「得なしで遊べるのが金持ちだけ」「損無しで遊べるのが博打の勝ち組」「ゲーム機を買うという行為は明確にいくら損か最初に提示されている博打要素のない遊び」であって、そこまで大金持ちでなくとも日本人の普通の所得でゲーム機って買えると思うんですけど(スマホ持っている人だって9割以上いる)それでもやっぱり損得のないゲームで遊ぶのが贅沢で敵だと言われるなら、それって既に強弁していても少数派だと思うんですよね。なんでそんなに貧しいの?俺がゲームしているせいなの?って。
貧乏だから金持ちが仕事しないでゲームしているのが羨ましくて悔しいって思うからって、自分が貧乏なのは世界の富が有限で金持ちが多くを取っているから自分の取り分が減っていると誤解してその事その人に対抗するでなくゲームという人の嗜好の特徴的な部分を槍玉に挙げて叩くってのが何かおかしいなと思うんですよね。
ゲーム会社で働いている人が「金持ちがゲームを欲しがるから俺ら毎日ゲームを作るっていう無意味な労働させられてんだよ!」とキレるなら筋が通っていて、だから俺はそれが分かったからポコポコ買う消費的なゲーム体験より1本を大事にする方向にシフトしたんですけど、前作カルドセプトを3年くらいやりこんで「やり尽くした」と思ったから続編やろうとしてんの。この3年ってサイクルは早いのか遅いのかってのが焦点にはなると思うんですよね。前作がドリームキャスト版からのリメイクであることを考えると10年に1本くらいの開発サイクルなわけで。
この話に何か落とし所って出来てくるだろうか。あるとすると仕事は何でもいいからしないといけない世の中。だからラクをするためガラクタみたいな無駄なものを作って仕事だって言う。だからそれを買ってラクをさせろって論理はどこかおかしくないか?無駄な消費が社会参加であるって価値観はどこか歪んでいて「ゲームやめろ」と「スイッチ買え」の板挟みの中潰れるか引き裂かれるかしそうな俺のゲームライフ日記は以上です。