せっかくリベラルなのに背伸びしてコンサバになる俺たち

政界の右派左派のねじれは昨年のひとつのテーマであったが、リベラルとコンサバが捻れている。
リベラルとコンサバは厳密には対義語でなく、コンサバが保守なら対義語はプログレで意味は前進、リベラルは自由という意味だ。
暇なので机の引き出しにずっと仕舞ってあった哲学書を読んでいると、人間社会は動物の群れから農耕が始まって土地や財産の私有化から封建制につながり、哲学者は常に封建制を強固とする宗教や法律に対して信じて守る姿勢でなく疑って突き崩す姿勢を取ってきた。そういう人々の総称こそが哲学者であると言える。そして東洋では紀元前に戦争が繰り返され儒教老荘思想が生まれ、聖徳太子がそれを大和に広めた。明治以降の進歩的な人は日本を西洋式の社会に作り変えてきた。しかし社会の西洋化は帝国制を強固なものにして、それに対して民主主義が立ち上がる。戦争をしたことが無かった島国に儒教が持ち込まれ、戦国時代に鉄砲が伝来して全国統一が果たされ、やがて航行技術の発展で世界中で交易が始まってから世界大戦が勃発して、戦争の後に帝国が権力を弱めてゆく。
そうして市民が勝ち取った自由がリベラルであり年貢や戦争のために働きづめに成らなくて良い社会なのだ。
だが、いくらリベラルとはいえニートは大人とは見做されないようだ。大人の社会というのは保守的なものだ。というか、リベラルが老後を自分の子供がいなくても独立して過ごせるようにするための社会福祉が年金であり、その担い手である労働世代は帝国ではなく民の集合である老人全体をリベラルたらしめるために勤労を強いられているのだ。その労働の形態はとてもリベラルではなくコンサバな社会であると言える。
コンサバの対義語であったプログレとリベラルは同義語であったが現代のコンサバはリベラルの意味である。では現代のプログレはどういう意味に解釈すれば良いだろう。それは現状維持を意味する保守つまりコンサバではなく復古を意味するリバイブになるだろう。
哲学をかじったので、何となく哲学っぽいことを言って終わるなら「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」ということで、俺はもう哲学者としては死んでもいいと思っている。本でしか知らない流転する世界を自分の目で一周分体験することが出来たのだから。まあ、世界史と哲学を習っても近所のひとひとりひとりみんなを知っているわけではないから、すごくマクロ的な思想なんだけどね。
ここでリベラルとコンサバを日本語に戻してみると自由と保守。「自由民主党保守政党である」って、それ若者の当たり前やんけ!