さいきんかんがえていること

KOF98とカルドセプトリボルトをたっぷり遊んで満足して、マロンロールケーキを食べてからタバコを吸ってコーヒーを飲みながらテレビを見ている。買い物以外に出かけること無く、家で1日を過ごす日々は他所の人とあって話すことがなく寂しいときもあるが満足している。
ふと、ゲームをしながらゲームがお金になったら良いのにとプロゲーマーのツイッターを覗きに行って暫し羨ましいと思い、やがてゲームがしたくないときも仕事でゲームするのはもうたくさんだ、過去にやりこんだゲームの経験値だけでラクに勝てたら良いのに、プロゲーマーとして名前を売ってから本の出版やテレビもどきのくだらないネット放送を出来たら、いくらくらい儲かるのかなと想像する。
ところで、コンピュータが将棋でプロ棋士を破ってからずいぶん経ち、プログラマーの方が結婚したという話を聞いた。男のゴールのひとつが結婚だとしたら、その道でゴールインしたわけだ。それが仕事の意味ではないかと近頃分かるようになってきた。本来的にゲームというのは生産性のない行為である。共産社会では「イワンのばか」にあるように手にタコのない人間は飯を食えない。頭と口で他人を働かすのは悪魔の仕事である。厳密な意味ではゲームをするのは悪魔の側のように思えるのだが、モノを作っていないかというと棋譜くらいは作っているのである。口から言葉を発する仕事も長けてくると饒舌になるのだが、俺はと言うとプログラマー時代にキーボードを打つのが速くなるよりマクロを組んでアイコンを作りアイコンで仕事をしてマウスだこが出来たことがある。マウスだこでもメシは食えたが、いざ結婚となると当時にプログラマーという仕事は謎に包まれて将来性があるかどうか不安がられ「普通の会社員が良い」と彼女は迷っていたようだが俺にもその不安が移って絶対に大丈夫とは言えなかった。ひとことは「大丈夫だよ」「でも・・・」「・・・」という具合に。
話を戻すと、将棋は共産社会ではしてはいけないことである。モノを作っていないからだ。しかし新聞に棋譜が載ることで新聞社がプロ将棋会のスポンサーになっている。遊んではいけない社会で将棋のプロは神格を帯びるほどに強くそれを祀って将棋は「してもよい遊びである」という安心感のようなものを与えて生産性がないにもかかわらず賞金を与え、働くものに対して将棋も同じ仕事であるとだましたことが新聞社の功罪であると言える。功罪の言葉の意味とは少しズレるかもだが、功であり罪であると考えるんだ。
つまり共産主義を掲げる群衆を相手に制度上の問題点や競争原理のほうが優れているという無理のある筋を通すより「それでもお金は儲かる」「お金が得られれば食える」「食えるほどのお金が得られればそれは仕事である」という風に本来ないはずの生産性をあるかに思わせるだけで充分に騙すことが出来て、それで結婚に至るほど女も騙せてしまう。俺はそういう意味では仕事に迷いが有り、プログラマーという仕事を自分でも疑ってしまったがゆえに自ら破綻してしまったのだよな。偉大なる宗教家は先ず自ずからを騙してしまうそうだ。
そういう意味で俺はプログラマーで飯を食うようになる前は本気でゲームでメシが食えるようになると思っていた。今もひとりで家のパソコンでゲームをしていても、騙す騙されるで言うと画面の絵とヘッドホンの音楽に騙されているだけなのだが幸福感がある。それだけの幸福感を誰かに与えることが出来たら、何なりと食える道はあるのかもしれないなと考え始めている。食っていくというのは自分の飯だけの話で完結していないか。プログラマーでも食っていける。ではプログラマーで嫁も子供も食わしていけるか。共働きでも専業主夫でも食っていくやつは食っていくのだが。嫁と子供を食わしているという世間体のために持ち物としての家族とそれを買うための仕事という価値観から、どちらかというと本当は弱い自分を守ってくれる女性というのが自分の理想像かもしれない。けどそれは自分の頑張りと天秤にかけてしまっている時点で無償の愛などには成りえない。将棋が仕事になっているように結婚も社会を構成するウソのひとつであるのは分かっているけど、それを頭から信じ込んで論理を組み立てるか、あるいは自分ならそのあるべき正しい姿からどういう類のウソであるのかキッチリ見極めないと納得の行かない制度なんだろうな。


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