野生の勘「横歩取りは悪手」と言われている時代があった

小学校で道徳を学んだ人は「人が嫌がることはしてはいけない」という約束があり、それは集団行動の鉄則である。一方で俺がゲームセンターなどの反社会的な集団で学んだことは彼らは止められるほどにそれをしたくなるということ。まあ、書き出してしまえばとても普通の禁酒法で酒が流行ったというような簡単な逆読みの心理だ。
それ自体は簡単なことだが、そう分かっているつもりの自分でも道徳に従っているのか、逆さの心理の誘惑に負けているか判じかねる部分があることが分かってくる。まず大原則として博打はしてはいけないことであるという社会性に反発してゲームを趣味にしているのであるが、そこでゲームを研究するに際してイカサマをしてはいけないというゲーマー集団の道徳は守っているのではないかと。
イカサマをしてしまうと、ゲームは途端にゲームでは無くなってしまい、つまらないものになる。研究対象としては稚拙になる。ルールがあるから競技化されて研究するに値するものになるのだが、その本質はサイコロ賭博のような運頼みの部分があり、それを如何に悟らせないかという手続きが複雑肥大化しているのだ。
つまり社会において道徳は守られるべきもので賭博はしてはいけないものだが、いったん賭博の世界に入ってしまうとそこに人がたくさんいて社会を形成している以上は賭博の世界にも道徳はあり、言うなれば名人を筆頭にした階級社会が選挙や学歴で構築されているのでなくゲームの勝敗で構築されていて、それを守るためには名人の側がイカサマで勝って新参者はルールを学ばなくてはいけないという構造があり、社会が強固にブロックされているがゆえの捌け口である賭博場が難しいルールに支配されている社会であるなら、それは何だろう。
社会の再構築を企てるものの論理が既存の社会倫理に束縛されているなら、社会の一部を隔離して小社会を作ってもそれは既存の社会の再構築であり縮図として社会構造をよりよく分かるための教材程度の意味しか持たないのではないだろうか。社会というのは何かという哲学的な問いから抜け、社会はあるとしてその中に賭博場があると出入りが自由になった賭博場は単なる小社会であり、小社会から元の世界に帰るのに賭博で得た金を生活資金に充てているなら、それはやはり包括する大社会があって初めて成立する小社会なんだよな。
魚の仕入れが競りであるとか、役所の事業が競争入札だとか、大社会にも蓋を開けてみるとくじ引きのようなゲーム競争はある。
競争入札自由経済競争というのは俺はしてほしくないことである。結局は個々のしてほしくないことを多数決という集団的合意で押し込めているだけで、我慢の仕合が自由民主主義の原理であると言うなら、俺はもうちょっと混沌とした無秩序でもそのほうが自分にとって勝ちやすそうだという期待を持ってしまうのだが、それは社会的弱者でありながら特殊な技能を持ち、それを活かせば勝てる社会にルールを作り変えたいというこの思想、一般的に何と言うんでしょうね。そんなに珍しい考え方でもないけど沈黙の少数派なんです。


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