久しぶりの新世界樹の迷宮(やっぱ新は新だった)

不思議な事があるもので、途中で飽きたと思ったゲームを続きから再開するとまるで今の自分の心の映し鏡であると思うようなシナリオが展開される。このメンタルマジックの理屈は恐らくゲームはゲームとしてシナリオは添え物と思っている俺でもゲームの展開が無意識的に考え方に刷り込まれていて、飽きたと思ったポイントは自分の思想とかけ離れているポイント、ゲームをしないで過ごしている間に意識がそのシナリオの分岐などの争点と同じところまで醸成されたということなのだろうな。

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そんなわけで人間対コンピュータのひと幕が展開されるネタバレ御免のスクショ。

ゲームなので暴走した機械を剣と魔法でやっつけるだけの展開ではあるが、物語の中の登場人物のやり取りには多くの民を救うため犠牲にされた少数民がちょうど登場人物の仲間の親兄弟であった、という話から数の大小で人の命を計って良いか、良策はないものかという葛藤に。人を守るために取り敢えず目先の機械と化物をやっつける。

合理を不合理で倒すには暴力という手はある。多数と少数に分かれて少数が犠牲になるのが目に見えているときに少数がそのまま自決を受け入れるより多数を相手取って戦うのも当然の合理だ。これをもうちょっと論理で何とか出来ないものか。

多数に少数で勝つためには数を2元にして、例えば質という新しい軸で持って少数の方が良質である、個数で見ると幅に取った場合は多数が勝つが質という高さが加わることで幅と高さを掛けた面積のようなものでは少数が勝つという考え方もある。

結局の所、コンピュータには大小の比較しか出来ないのかも知れないが、人間の質を1元で捉えることは難しく、人ひとりの内的な複雑さというのがコンピュータを超えているという路線で持ってすれば多数か少数かどちらにつけ計測不能であるという落とし所には持っていけるよな。1元で表すと多数も少数もゼロで有る場合と少数の方が質で勝っている場合と双方ともに無限である場合に等式が成り立つ。この場合の無限は数学的な無限大の意味するところでなくともコンピュータの全ての情報量を持っても表しきれない量であれば判断不能に至らせるに十分である。

まあ、現状の日本は多数決が重んじられるので個数の勝利は正義であるから、少数派はそれなりに生き残りのための伝達方法を生み出している最中なのだろうな。仏教にハマる人がいるのも釈迦の教えが優れているがそれを理解できる人は少なく、世の中は多数決であるから小乗と大乗に分かれて大乗が勝っているようだが、命の尊さはただ漫然と生きているということでなく精神面での充足の到達点である悟りを得ることだと考えれば、なるほど少数派も納得の小乗仏教になる。

まあ、世界樹の迷宮が新世界樹の迷宮になって何が変わったのって、流してしまわずに残りの話もゆっくり味わって自分のペースで消化していきたい。

 

追記:2018/10/21

生存のために多数決を取られた場合の少数派の意見として少数の方が優位であるとか等価であるというのは話の建前で、本質的には情感に訴えて憐れみを買っているというのがグングニル起動をめぐるやり取りだろうという指摘が。

また、比較して等価であるというのは論理的には少数優位であるが、リッキィの反省は比較をしたという点についてである。比較した結果についての反省でなく、比較そのものを回避せねばならないという倫理観。比較はつまり二者択一の切り捨てであり、両者を生かす選択肢を極限まで考える。

しかし、決断にはタイムリミットがある場合もある。過去においてはそれしか選択がなかったとして、今後は猶予がある以上は互いを尊重すべきといったこところか。


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