「フェア」という言葉の意味が分からなくなってきた

バーチャファイターを作ったセガAM2研の鈴木裕がバーチャファイターの大会の後に「開発者も出ろと言われたんですけど、僕はそんな甘いことはしません。もし出るなら自分が絶対に負けないようにプログラムを作ってから勝負します。ゲームで遊んでいる子どもたちに作っている人に勝てるほど甘くないと思い知らせたい」てなことを発言していたのが俺がバーチャブームの時にバーチャをやらない理由のひとつだった。

PS2版のバーチャファイター4の頃には鈴木裕も出世して「今の若い子は放っておいてももっともっとって色々な機能を足して仕事をやめないんですよ。本当にもう発売するからって止めるまで作ってくれました」てなことをゲーム雑誌の取材で言っていたのが好感度高かったな。あの頃は雑誌の取材の開発者の言葉から人物像を想像してそれに対する好き嫌いがゲームソフトの好き嫌いに結びついて、好きなものは遊びこんでもっと好きになってた。

んで自分がゲーム機でなくパソコンでプログラムを組んで遊ぶようになって、プログラムを組んでいるんだからコントローラーをガチャって遊んでいるだけの人には負けたくないって思うようになったのは昔に反感を持った鈴木裕のインタビューに感化されてんじゃないのかと。

それで、開発者とプレイヤーのフェアな対戦というのが有り得るかと考えてみて、ルールのプログラムをしながらルールを隠匿して発売するのはアンフェアだけど、画面や音の演出面のプログラムをしている間に遊んでいた人間と対等に勝負するというのは先に作ったものと見るだけのものという差があってフェアだとは思えない。

フェアにこだわっているのって、恐らく俺の人格が形成される学生時代に人間はみな生まれながらに平等であり、そこで競争に勝つということが努力の証拠であるという考え方があったからだろう。俺は早生まれなので、遅生まれの子供のほうが身体的成長が進んでいてスポーツでは有利だけど、学業の面ではどうか。数ヶ月の差だけど、年の小さい伸びしろのある段階から同じことを学び始めているとも言えるし、同じく数ヶ月の差だけど成長してからハンデを背負って競争に立たされていると捉えることも出来る。

結局は俺が小学校の頃に習ったようなことは西洋で弁証論理学が流行った頃に作られた社会制度をGHQや政府が押し付けたようなもので、より新しいことを学んでいく間に不合理に気づきながらも、それらを部分的に論破してもそれを飲み込んで社会を形成している側の人間からは屁理屈だと押し込められてきたんだよな。

そこまで考えると、自分がセガの鈴木裕に求めたフェアという言葉も筋の通らない言い掛かりのたぐいだと考え直して、自分でプログラムを組んで提供していることとプログラム中に表現されているルールの中での勝敗とその勝敗に基づく人間関係の序列の変化は全部誰かの頭の中ではごっちゃになっていたとしても、無関係な問題なんだよな。

フェアという言葉の意味は分からなくなってしまったけど、何かもっと別のことが分かった気がする。ただ、それを他人に飲み込ませる強制力を俺は持たない。