秩序に守られた社会は幸福だ。信教の自由はゆるやかなキリスト教化活動。

中国の経済自由化で急速な社会変化が起きているが、果たして中国人は幸福になったのか。富の二極分化が起こりより幸福な人と不幸な人が別れ、その平均値とか中央値あるいは良い方だけにクローズアップした発展がメディアで流され発展と捉えられている。

もちろん、俺だって豊かに暮らしたいとは思っている。アリの社会は働き蟻が2割で他の8割のアリは遊んでいるという。国家とか世界経済というか、経済というお金の話ではなく食糧生産とか生活必需の労働に従事する人の割合は全人口の2割程度で良いとする説がある。2割の人が働き、残りの人は文化的な活動つまり遊びをする。アリの社会では働き蟻が死んだりすると、自然に8割の働き蟻の2割が働き始めるそうだ。

日本の食料自給率は低く、日本人のうち食糧生産に従事している人が生産する食料だけでは日本人全員が満足に食べることは出来ない。日本は貿易国で商売によって儲けたお金で食料を買い足してみなが食っているので、世界的に見て遊んでいる国と言うことも出来るが、日本において対外貿易というのは生活のために必要な労働とみなされる。

日本なんて無くなってしまったほうが世界の富の分配量が上がると思ってしまわれると、いらない国となる。しかし日本がなぜ必要とされているかと言うと、農業とかに従事する人もまた日本の豊かな暮らしに憧れるからではないだろうか。

ところで日本国憲法では信教の自由が認められている。戦前は神道や仏教が盛んであったが、戦争の原因は天皇陛下を始めとする神道であるとされ、キリスト教への教化が平和への道という目論見がありつつ、戦後に露骨な布教をすると十字軍と変わらない宗教戦争の色を帯びるので先ず信教を自由化してゆるやかにキリスト教への教化を進められているのではないかと考える。もちろん、戦争は宗教の側面でなく植民地や資源の奪い合いという側面もあるだろうが、人間が完全な自由闘争を行う戦争が自由な状態であるかと言うと、互いの銃剣を収めてしばきたいやつでも我慢し合う状態のほうが束縛されつつも確保される自由の量が多いというのが秩序ではないだろうか。

秩序の中での平和。その秩序の規範が宗教である。キリスト教にも宗派があるが日本語で牧師と翻訳されるプロテスタントは牧畜農業国を最も良い状態としており、その理想が他の宗教たとえば仏教の肉食を良しとしない教えなどと反するから、宗教の違いが政治的な摩擦を生む。政教一致は政治のひとつの理想形であるが、そのために軍事力で強化活動をした歴史の失敗から、対話による外交が現代の政治の在り方である。

思想の違いで人の生活圏を分け、互いの国境を守りながら労働力を確保して生産品を交易して世界は回っている。以前の俺は世界を征服して思想をひとつにする究極の宗教のようなものを創出して布教すれば世界は平和になると考えていた。しかし、人々の役割に置いて2割が働きアリで8割が遊ぶアリになるのなら、みなが2割ずつ働くような労働分配は難しいわけで、貧乏くじの2割に対して教える必要性と遊んでいる8割が責任を回避する自己都合の二律背反は無くならないように思えてきた。

だから多数決で選挙をして8割を取れる自由民主党が強くて2割の議席共産党のような野党が騙しきられてはいないものの市民権を得られず黙って働くという社会構造に落とし所は今以上にはないのではないかと考えるようになった。

牧師さんのお説法を聞けば共産党の人を全員騙してくれるだろうか?俺はそうは思わない。