子孫繁栄が第一義の倫理観の中で遺伝子組換えがダメなわけ

まあ、タイトルに全部詰め込んじゃったんですけど。

ヒトは何故生きているか、その問いは深淵なものです。

昨日のことを覚えていますか?自分は過去から未来へつながっているという時間の概念があります。朝目覚めてやがて日が落ち、夜に眠ったらまた日が昇って明日が来るというような簡単な天文が時間の由来です。

では、覚えていないほど昔のこと、生まれる前のこととなると記憶ではどうしようもないので記録や歴史や学問があるのです。

学問をすると文字が読めるようになり、昔の記録を紐解いて人類には歴史があり祖先がいること、科学の実験をして世界はどのように出来ているか調べた人の知恵を借りることが出来ます。また、それとは別にお経や聖書を読んで偉人の知恵を授かる人もいるでしょう。

その究極系はまだ定かではないにしても、おおよその科学的理解として、人間はその起源は諸説あるにしても親から生まれ子を残すことを繰り返して歴史を作ってきたことを現代社会で疑う人は稀でしょう。

人はコウノトリが運んできたのか果実を食べて天から落ちたかネズミやサルから進化したのか分からなくても、とりあえず結婚して子供を産んで育てれば問題を先送りに出来ます。それは、未来永劫続くかはともかく当面の我々の目的です。

そこにフラスコから人が出来てしまったらどうなるでしょう。人工授精も以前はタブー視されていましたが、辛うじてお母さんと思われる人とお父さんと思われる人の間で人工的に交配されるので、近頃ではセーフになっています。

では、さらにもう一歩踏み込んで精子卵子の持つ遺伝子DNAを人工的に組み替えてしまったら、それは誰の子になるのか。育ての父母を付けるとしても、歴史的なつながりのない全くの新人類になってしまいかねません。

何がいけないかと言うと、どう扱ってよいか良いか誰にもわからないからです。それは裏を取ると、人をどう扱うかは生まれによってだいたいどう扱えばいいか分かっているからということになりますが、残念ながら未来はまだ誰にもわからない部分もあります。

俺は人生の意味は親から生まれて子を生み育てることの繰り返しの中で生まれた人がそれぞれに体験して思い感じたこと全て、他愛のないことでも歴史的な大発見でも大小の別なくくまなく全て意味であると考えています。だから遺伝子をもし組み替えたとしても生まれた子が他の人と同じように感じて思って触れ合って社会に順応できるなら、組み換えでない子らと何ら変わらないのではないかと思い始めています。

そう考えると自分の子を残したいという思いが少し弱くなりました。どうしても子が欲しいとは思わなくなってきたのです。これが皆に伝播してしまったらどうなるか、と考えると、こんな考えは広まらないほうがいいのかなとも考えます。

ただ、そういう事が何のために行われるのかということを考えると、単に知りたいからと言う理由で弄ぶように実験してしまうということは殺人に近い罪ではないのかということ、反対に射精や妊娠できる時期を過ぎた夫婦に自分と同じ遺伝子型の子を持つことが出来るようになるという意味でなら罪にはならないかもしれない。

個人的には歳をとった昔の恋人ともし依が戻ってもそこまでして子供が欲しいわけではないと思っています。気持ちが離れた理由が相手が年をとって自分はまだ元気なので若い恋人ができたら子を残せるかなと思い始めて自然と好きな気持ちが遠のいていったのですが、近頃になると子供は別にどっちでも、むしろいらないくらいかなと思ったら自分の結婚感とか生きる意味とか、この先の人生でやりたいこと、全部少しずつ方向転換し始めています。

子を残す、さらには子が子を産める豊かな社会を維持する。それ以上の生きる意味を示してくれるものは文化的というか趣味的活動で内向的なものになってきて、その内向的趣味だけで人生をまっとうするのも悪くないかなと、それはちょっと寂しいときもありつつ。