最近の考え事「集団意思はカオス理論を超える」

バタフライ理論というカオス系の理論を知っているだろうか。

科学は理科の実験のように誰がどこでやっても同じ結果になる「再現性がある」ということを根拠に発展してきた。実験から自然科学が体系的に理解されていって、いずれは世界のすべてを説明する統一理論とか真理のようなものに辿り着くと考える人もいたかもしれない。

しかし、自然科学でも生物や気象の変化などは分子論などから外れているわけでなく、生物も天気も分子でできていて物理法則には従っているものの、それらが実験条件として全く同じものが揃うことなどなく、常に似た状況でも微小の初期変化が結果に対してどう絡み合うのか把握することが出来ず、再現性を持たないと言える。

これを例えてタイムマシンで過去に行って蝶々ひとつ捕まえて現代に帰ったら、その現代は蝶々を捕まえる前の過去から見た未来とは全く違った現代になっていたというSF小説のような話が語られてバタフライ理論を呼ばれている。

言いたいことは分かる。

特に蝶々ひとつでも気候に変化を与えてデートに行く日が雨か晴れかで結婚するしないが変われば人の誕生なんかにも変化が起きるかも知れないし、その影響範囲が計り知れないのも分かる。

けど、現代社会で蝶々を捕まえても、政治的決断とかに与える変化は皆無ではないだろうか。例えばタイムマシンなんて大げさで架空のものでなく、雨か晴れかで会社に行くいかないを決められる人など居ないだろう。電車が遅れて遅刻することはあっても、傘をさしたりして会社員が会社に向かうのは当然のことである。

ひとりの意思でそうなのであるから、それが集団意思となった場合には、誰かがたとえ命を失うようなことがあっても意思を継いだ後任者が現れてやはり同じ仕事をしてしまう。東京オリンピックが開催されると決まったら、気象や生物などのカオスによる経過の変化はあっても2020年にはそれが大体のルートで決行されるのではないだろうか。

何のために生まれて何のために生きるのか。そこに自然科学を超越する意思を与えるものが宗教なら、その教義などに非科学要素を含んでいるとしても歴史的再現性はあるのではないかとさえ思うんだ。