混沌と秩序の関係は事象ではなく観察者の側にある

混沌つまりカオスと秩序を示すローと言えば俺のゲーム知識で「真・女神転生」や「タクティクスオウガ」と結びついているが、中学高校くらいでそれに対する感覚は「いいもん」「わるもん」くらいであった。ウィザードリィではイービルとグッドに分かれており、それらは説明書で道で困っている老人がいて利になると思って助けるのはイービル(悪)で違う道でもわざわざ助けに行くのがグッド(善)、同じ道だからと助けるのがニュートラル(中立)と書かれていて、それが俺の善悪感の根底にあるのだが、今考えるとウィズのイービルでも随分と良いやつである。

善x悪と秩序x混沌はまた違った尺度であることが分かるようになった今、真・女神転生のシナリオをあらためて読むと違った感想になるのかなとは思うがゲームの話は置いといて。

理科の実験が毎度上手く行くように科学というか物理は真理であって逆らえない絶対の法であるという考え方をしている俺だが、例えば実験で使うフラスコは一見どれも同じであるが電子顕微鏡とかAFMで比べたり、もうちょっと易しく高精度の秤で比べると少しくらいガラスの厚みや重さに差があるかも知れないわけで、理科の実験で条件が同じであるというのも極度のミクロから比較するとややゆるい同条件で太陽と月と地球の位置関係による微小の重力の差や実験で使う真空がおそらくそれぞれに異なった微量の薄い空気を含んでいることから、同じであると判じているのは観察者の分解能がそのレベルであるから等しいのであって、厳密には全く違う実験で結果もまた異なっているというのがあらゆる事象がカオスであるという極論に発展しそうになった。

だが待てよと。

例えば日本の鉄道関係者は優秀で、毎日同じ時刻に電車が駅に止まる。これが秩序である。天気も違えば日付も違えば運転手や乗客が違う場合もあるのに同じと判定している。この基準でモノを見るのが秩序であれば、ミクロの世界でどれほどカオスであることを力説しても世界は秩序に満たされている。それらを形作っているのは人間を始めとする生物である。

生物とは不思議なもので、コメを食おうがジャガイモを食おうが体の形がそこまで変わることはない。別条件で同結果を得るように出来ているとでもいおうか。まあ、野菜を食えば痩せるし肉を食えば太るわけだが、野菜を食って痩せていても痩せた状態で体重はキープされるし肉を食っても太った状態でキープされたりもする。

そうすると生物はカオスのようでありながら生体的にはローの属性を持っており、後天的な知性でミクロ的なカオスではなく、反社会活動のようなマクロ的カオスに染まってゆくのではないかという性善説性悪説みたいな倫理の問題が浮き上がってくる。

中学くらいで真・女神転生を遊びながらそこまで考えるほど同級生に進んだやつが居たのかも知れないし、ただの買い被りかもしれないが、シナリオが面白いと感じている以上は程度の差こそあれそのテーマを考えていたということだ。悪いやつだった。イービルの意味で。

もちろん、善悪の基準も決めているのは人間であるが、それは東洋思想である。ローとカオスは西洋思想になるわけだから、ホッブズリヴァイアサンで著した万人の万人に対する戦いという状態は言うまでもなくカオスになる。倫理の教科書の順で行けば古代ギリシアには紛れもなく秩序があったのに、封建社会が崩壊して革命が起きた世界でカオスが語られてその中で新たに秩序が説かれたのではないだろうか。

歴史に名を残すのは大抵の場合為政者であるが、群衆は秩序に不満を感じて蜂起してその中でまた新しい秩序が生まれるということを繰り返して社会の有り様は変わってきている。つまり秩序を保つことは和平への道であると考えがちだが奴隷支配によって保たれている抗えぬ秩序のようなものがあったことも歴史は証明しているから、ローがグッドでカオスがイービルという結びつきは間違っている。

善意を持ちながらもその人が理路整然としておらず混沌としているということは有りうるし、悪法も法とか悪代官とか秩序に基づいた悪というのも有りうる。

まだ色々のモノの見方があることを学んで消化している途中であるから、本稿はここで終わりとする。捉えようを変えることで、今後何を成すべきか変わると思うから。

法を守るということは善を成すということでなく、階級社会で下の立場に甘んじよという束縛でも有りうるわけだから、反政府的な自由平等の教えはともすると思想を混乱させる場合がある。ガンジーの非暴力不服従の精神でもって、秩序に屈すること無く心の中で抗うことが階級の低いものが思想によって自由を獲得する道であるなと近頃では思う。