まあ、人間はネットワークの中で個を見いだすもんじゃないかな

俺が生まれ育った時代に科学と呼ばれていたものはアリストテレスの時代に機械論と呼ばれていたものの復興で、古典力学を基調としていた機械論が蒸気機関電磁気学などの発展でそれらの新しい概念を使えば生物もメカニズムとして論証可能ではないかと頑張った人達がいるってことなのかな。今日の勉強メモ。

工業大学出身の修理工である親父から譲り受けたものが、職業プログラマーとして多くの工業系また工学系の人とふれあい、それによって機械論で出来た世界の中で生きてきたけど、仕事やめて中学理科くらいから復習して高校生物から医学部の教科書を取り寄せて読んだりしていると、やっぱ生物という学問も機械論的なアプローチで発展してると思う。

だけど、古代においては生命とは定性的に理解できるものではないと考えられていたし、プログラミングとかアルゴリズムノイマン型コンピュータ1台に限って定性的に理解できるけど、ブラウザ上でネットワークを介して動くクラウドコンピュータというのはクライアント端末1台の挙動からでは完全にブラックボックスとなってしまう。

これを併せて考えると、あるいは神の視点において生物が定性的でも人間が視覚や聴覚や触覚などの五感を持ってして理解できる人間像からはその人のこころを全て読み解くことは出来ないと思うし、人の心が他の人の心や自然や人工物つまり世界と相互作用をもってその中で変容することを考えると、瞑想によって内向的に心因を変化させることには限界があるだろうし、ひいては犯罪者を牢獄の中で矯正することも出来ないんじゃないかな。

これはひとりでコンピュータ相手にバーチャファイターを練習して強くなるのか、あるいは定性的に強いロジックなどはなく、ランダムにジャンケンする人が何人もいるとその中からたまたま勝ち続けてしまう人が数パーセント現れるという現象なのか。わざと負けることも出来るから、それによって神に見える人が祀られていると見るか。

めざましジャンケンというテレビで芸能人がカメラに向かって出すジャンケンと毎日戦っているけど、強くなったと思ったことは一度もないんですよね。今日はアイコ2回と負け1回。

強い人など居なくてもトーナメントでジャンケンをすると誰かは優勝するわけで、優勝したんだから強いはず、強い人は何連勝もするはずで、俺を取っ捕まえて対戦させて負かしたのだから優勝したというのはウソであるという論理の人に悩まされたりするんですけど、まあジャンケンを避けるシーケンスによる強化とシーケンスを合わせた時に発生するジャンケンの読み合い的な強さあるいは運の強さと両面あるいは三面の要素があると考えているんですよね。

とりわけ俺の場合シーケンス的な強化は自信があるけどジャンケンは運だと思っていて、読み合い派の人には否定的でシーケンス派の人にはいずれ避けられないジャンケンが待っていることを理由にそれ以上突き詰めて考えることを先延ばしにしています。

まあ、やってみたら勝者と敗者が出来て、勝者には全てが備わっているという短絡思考をあらためるのは簡単ではないけど、論理的には間違っていると思っているんですよね。