タイミングシーケンスと目視シーケンスで試す投げハメ

深夜のテレビでプロゲーマー「ふーど」さんが目隠しして初心者に勝っていた。

俺はゲームは目が見えないと辛い派だが、まあ見たことがあってから目を隠すのと最初から見たことがないという差を考えず、見たことがあって頭の中にすっかりゲームが入っていたら見ないでも出来ることと言うのは結構ある。

ビートマニアなんかだったらあるいは見なくても出来るようになる可能性がある。

それとは別に俺は姉の家に遊びに行って姪っ子とトランプやジャンケンをさせられて、ちょっとかじったメンタルマジックでからかうと、幼稚園くらいなのにゲームで顔面蒼白にさせてしまったことがある。「あれ?」とか「不思議」とか思うのは小学生で勉強を覚えて科学を信じて手品なんて何か種があると思ってから不思議に思うのだろう。幼稚園には刺激が強すぎたようで反省した。しかし、その子が小学校高学年くらいで弟と妹ができたら、久しぶりに今度は妹ちゃんのジャンケンの腕前を試してやろうとすると信じられないくらいにひねくれていた。お姉ちゃん、だいぶいじめたな。

まあ、それらを合わせて考えると、カプエス2のテリーの歩き投げ崩しの裏に踏み込みしゃがみ小キックを使うのは相手が歩いてくるのを見てボタンを押す時には有効だが、見てから押す精度が高いと投げは通らない。

しかし、精度が甘い相手を狩るのに待ちを踏み込み投げで崩していると、暴れを食らう可能性がある。

そこで相手の足払いの当たらない間合いから踏み込んで歩いて投げるまでを距離ではなく時間で考えて、歩き投げを通したあとに次に踏み込む時は相手の足払いのリーチギリギリ手前までは踏み込んでも、そこですぐ足払いに持ち込むのでなく、そのまま歩いて投げを決める時間間隔を踏み込まずに待ってから足払いに移行する。

相手が画面を見て反応しているのか、タイミングなどの感覚で操作しているのか、マイコンのようにフローチャートで動きを決めているのか、人それぞれで相手を推し量りながら遊ぶのは面白いし、大体の相手には試している間に勝ってしまうものだが、俺はヌキとやった時に自分のフローを見抜かれた感覚があって気持ち悪かった。

そういう気持ち悪さを感じたことは20年くらい経ってもゲームの画面と一緒に覚えているものだ。反対にウメハラとやった時はもっと自然な読まれたという感覚ではなく乱暴なバクチをされて負かされたという感覚だった。大会前にこちらが勝ち越しの格好で

本番で裏をかかれたわけだが、それはゲームに対するロジックのはかり合いというよりも、もっと先に300円負けておいてウソの動きを思わせて人が多くなったところで1回の勝負に勝ってみせるみたいな老獪さとでもいうか、当時の俺の趣味とは違った。

まあ、その後の俺はと言うとウメヌキのような強さには憧れつつもそのために東京に引っ越すよりは大阪で充分楽しいと思っていて、病気をして休業してから実家で暮らしているので、ゲーセンで10連勝しても100円は損しているわけでモンテで毎日2000円使って閉店までゲームするみたいな、モンテで2000円で閉店まで遊べるのって勝率で言うと勝っているんだよと言っても相手が店の回し者だと仮定すると毎日2000円まる取りされているわけで、もっとスゴくせこい金銭感覚でウメヌキと戦って負かすとかロジックを見破るとかでなく、自分のパフォーマンスの腕を磨き、新しい種を考えるほうに舵切りした。

俺が運ゲー論者になったのは、アメリカで勝ってそれが幸運だったというのは建前で、ロジックを完全に上被せされた心地悪さから「読まれてたまるか」とコンピュータの乱数生成プログラムのような数学的な難解さを自分のロジックにしたいと思い、そのロジックを他人に分かりやすく言うのも面倒なので簡単に「運」という。

だけどデタラメにしようと自分をどんどんデタラメにして、その中で統計的に勝ちを目指すコンピュータ麻雀のようなこともやった結果、俺はやっぱゲームを通じて人を不思議な気持ちにさせるようなメンタルマジックを考えて騙すのが好きな意地悪を楽しんでいるのだろうなと思う。

犯罪とか迷惑とか、本当に意地の悪い背徳には快感より後ろめたさを感じるタイプだが、かつてはゲームの世界ならそれが許されると考えていた。だが、ゲームの中でも意地悪は良くないと思い始めたのはチャット付きのMMORPGでゲーム世界の住人と戦争になったあとのことである。

今はコンピュータ相手に遊んで映像と音楽に操作をシンクロさせるだけで充分気持ちいい。だから新しい技は考えるが、それをまだ人には試せないので文章で説明してブログを書いて楽しんでいるのだ。