「結局はやり方のきれいな方が勝つ」という糸井重里の言葉

般若心経のような大乗仏教によくある「心の持ち方」説に近いのですが。

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だから、毎日エントリーして記事を書き溜めていると時事より先に何かを書いていて「俺のが先」になることはあるのですが、取り立ててそれを目立たせることはありません。反対に自分が書いた後から古い日付でリライトして埋める人がいることもあります。では、なぜそれをやり合わないで愚直にも毎日その日の日付で記事を書くのか。

その根底には小学校の道徳とか公平平等とか自分のことは守ってくれない民法のこととか、そういうことではなく昔「ほぼ日刊イトイ新聞」で読んだ「結局はやり方のきれいな方が勝つ」という言葉のインパクトが大きかったんだと振り返ります。

この言葉は今では間違って言うと思うし、糸井重里がきれいなのか汚いのかもはっきり言って知りません。汚いやり方に負けたなと思うことしばしですが、ただ勝ち負けでいうと負けていても、自分の中にルールを課してそれを遵守しているという気持ちの良さみたいなものがあって、それは大乗仏教とかキリスト教が教える忍耐をとても似ているのではないかと気付いたんですよね。つまり俺はイトイ教なんだなと。

ストリートファイターIIに夢中だった頃ってか今も好きですが、みんなのルールを守らないはみ出しものがいて、俺はその頃の彼の唯一の話し相手で反対に何故ルールを守らないといけないかということについて議論しました。ゲームというルールが有るのに自分が勝つために新しいルールで相手を拘束するほうがおかしいとか、ウメハラを台に座らせて羽交い締めにしてボタンを押させないで勝ったらそれはウメハラに勝ったことになるのか、ゲームプログラムを改造して押したら相手の体力が全部減って勝ったことになるボタンがあったら、などとくだらないとりとめもない話を延々としました。

つまるところ、ゲームのプログラムがどうであるか繰り返して遊ぶことで自分の中にモデルを作って、そのルールの中で最高の戦略を考え、よりウワテの相手に負かされることで自分の間違っているところをあらため、究極的にはストリートファイターIIに自分がなりたいと思っていたのではないかなと思うんですよね。

まあ、ストリートファイターIIは「西谷亮」か「あきまん」なんですけどね。大方は。

そういう意味では俺はKOF'94で草薙京にされてしまったけど、まだ半信半疑です。

話がそれましたが、俺が自分で決めた反則をしないのはそのほうが自分に対して気持ちがいいからです。自分が反則しないで当日記事を書いてと言っても昔のことを振り返って後から書くにしても書いた日の日付で投稿して、それを読んで過去日付で記事を埋めた痕跡を見つけるたび、刑事がホシを上げたかのように「犯人みっけ!」みたいにニヤニヤしている自分が多分いるんですよね。

だけどそれ自体が即座に犯罪というわけではないので取り締まったり捕まえたりということにはならないんですけど、俺の世界で定義された悪者が出来るたびに「俺はやってない」という気持ちよさが大きくなっていくんですよね。

これがもしかして「徳を積む」ってこと?いや、本当かどうかは知らんよ?