今日の遊戯王DS(自分を信じるということが自信なのか)

デッキいじりをやめてコンピュータ相手に昨日のレシピで実戦経験を積む。

俺は格闘ゲームもカードゲームもよそに行って強い人と交流して揉まれる中で経験を積むほうが強くなると考えていたが、近所のおもちゃ屋で今はクリーニング屋のキューピー堂のトン兄に勝ちたい(智也だったはずで、おばちゃんが「トン」と呼ぶので学校の連れがトン兄「とんにい」と呼ぶようになった)

トン兄は俺の目算ではゲームにある意味では強いのだが、すごく臆病な性格で負けそうな時は断固として対戦することを拒む。なぜ臆病なのか不思議なのだ。学生の時に柔道をしていて体格は力士の白鵬みたいであり、殴り合いでもしたら負けそうだと思う。

それなのに「対戦しようや!」と言うとウジウジして「いやや」と言い、拒否する。事故したこともあるし入院したこともあるらしい。トン兄がバイクに乗るのはクルマに乗ると狭い道でおじいちゃんがフラフラ自転車をこいでいると間違えて轢いてしまったら一生監獄だという風に恐れている感じなのだ。

多分、もし負けたらおばちゃんから晩飯抜きにされるとか、そんなんだと思う。

俺はどちらかと言うと子供の頃は親父に「負けるが勝ちや」と教わった。商売なので負けて機嫌を取る接待のほうが大事だという考え方なのだろう。

親父の商売を俺はまだ継いでいない。他の仕事をしているし、仕事関係の人とゲームをしたことといえばビリヤードやボウリングで負けたくらいのことで、俺と遊戯王ストリートファイターをしたがる仕事関係の人などいないと俺は思っていた。

しかし、よくよく記憶をたどれば俺は20代前半に勤めていた会社で木村先輩がガンダムウォーというトレカを買ってきて、先輩の好きなデッキを組んで余ったのあげるから遊んでよと言われて、会社全員が見守る中でいい勝負になり、先輩が長考に入ったところで部長が「お前ら何やってんだよ!」と怒鳴って中断してそれっきりなのだが、あの時に部長はもう俺が勝ってしまったと思って止めたのかもしれない。

俺の同級生にも木村がいて、木村先輩の出身校が俺と同じなのだが、その偶然のめぐり合わせの話を同級生の木村に言うと女性のする話のように相手のことをズバズバ言わずに「私の友達にこんな人がいて」と架空の誰かに例えて相手の欠点を指摘する話みたいな話だと思ったのか、俺の体験談を実話だとは信じていないようだった。

それで、何だっけ。遊戯王DSだ。もう話を夢中で書いてたら遊戯王DSどうでも良くなったよ。岡崎課長はビリヤードの達人だが、俺がたったひとり課長の通う店に招待されて、ナインボールでブレイクを俺が決めた後に課長がひとりで最後の玉まで全部ついて「あとひとつ」のところで「ああっ!ミスした」というと、もうどんなヘタレが突いたところで勝ちになるような配球で俺が勝つと課長は「勝ったやん」と言った。「いやいや、これは勝ったとは言わないでしょう」とやり取りしたが、おごってくれる竹山社長とは違って岡崎課長は「なあミヤザワ、マクドナルドでマックポークふたつ買えば腹いっぱいで200円やぞ?」と会社帰りの飲みをやめるように諭す人であった。

結局のところ、俺は人から色々とガイドを受けながらもゲームにどう臨むべきかは全く見えていないのだなと思う。誰かに勝ったという比較をしてトロフィーなどの物的証拠を求めているし、それで誰かをマウントして優位な人間関係で物事を進めたいとどこかで願っている。

ただ、商売のためにゲームに負けるというのは遊戯王で生贄召喚をさせてから罠カード発動したり、ストリートファイターでジャンプキックをわざと食らってから投げるように、将棋でいうと飛車を取らせて玉を詰めるように、そっちのほうが儲かるから先に負けるのだ。このへんの損得勘定がどこまで誰の計算で、俺は得しているのか損しているのか。その計算もゲームのルールがだんだんと複雑化しているように人間関係と表裏一体なんだろうな。

俺にはわざと負けて懐柔したいと思うようなカモに出来る相手が今はいない。まあ、お金でいうと負けて儲けることは出来ても、それでゲーム大会優勝とかの自慢が台無しになるのかと思うとゲームに強くなるのにかけたお金が反対に損したように思うことだってある。

それでも増えたり減ったりで41歳まで生きてきた。自分なりにそれが良いと思える選択の積み重ねの結果なのだ。他にしたいこともないから、明日も遊戯王DSをすると思う。今日は遊戯王に関して特に誰かに説明したいようなことはない。

本当に遊戯王なんかいい年してやってて良いのかという無駄な疑問に苛まれ無くなったということが、集中できているという意味で最近のいちばんの進歩なのかもしれない。

「トン兄と勝負してみたい」というのも書いているうちに自然に思わなくなった。