道はまだまだこれからかな

「神はそれでも許してくださる」結局何をやっても最後には祈りで許されるなら悪いことやったもん勝ち、一番悪いやつの勝ちではないか?日本のほうが案外と治安は良い。それは道徳が守られているからだろう。日本人のほうが信心深いのだ。だがそれは懐疑心や論理性が弱いからだと言える。論理学を学んで法律は守るが道徳は守らない、何故なら罰を受けないからだという人間がいる。だが、隠された合法の悪は暴くことも裁くことも難しい。それはその人が悪人であるという悪の定義が東洋思想の正義に基づいているからで、司法は西洋の形式を真似て作られている。そこで制度を改めるべきであると訴えかけるのが弱きを司る左翼思想である。

職人の世界では口を動かさず手を動かすべきという考え方がある。それは暗黙的に手仕事は善をなすためにすることであるからで、口論をする代わりに誰かを殺して麻酔を打って凶器を手に持たせて麻酔から目覚めた頃には殺人犯に見立てられていた、ようなことがあったらそこで黙っているとどうなるか。黙秘権を行使し続けると弁護人が付くだろうか?そういうのはミステリィ小説の中の話だと思う人もいるだろう。冤罪のために第三者を殺人するトリックがあるなら当事者を殺人するトリックを例えば事故偽装などで仕留めたほうが簡単で早そうなものだからだ。冤罪のトリックはもっと軽微なイタズラに使われる。万引きや窃盗を寃罪する犯罪者は多い。

そのトリックを突き詰める過程で悪徳商法があるのだろうな。ベニスの商人は最後には裁かれてしまうが、それも物語の中の出来事で、その物語を痛快に思って民が受け入れたということは旧態依然と悪徳商法が庶民の敵であったからだろう。

では今はどんな話が受けているか、と考えると策謀を練るのではなく単純に殴り合うようなバトルものにも一定の人気はある。そんな単純な誰にでもできそうなことが複雑なルールで制された世の中、原始的な争いの中に身を投じたいという欲求があるのでないか。ルールが難しいから簡単なマンガを読む。簡単なゲームをする。

だからその簡単なルールを承認してその中で複雑な戦略を持って勝つというのは枠を狭めた分だけ繊細で緻密な部分もあろうかとは思う。戦争をしないでコンピュータが小型化高性能化してきた歴史となんとなく似て感じるのは単純なゲームが小型で高性能なコンピュータで定義付けされているからだよな。

その内的な繊細さもまた思想の出発点が善であったとしても隠された悪が裁けないのと同様に誰にも気づかれることのない善なのだよな。なんのためにゲームをするのか。

ふと気付けばゲームの攻略に置いて自分自身は強さが身についているのかもしれない。力なきものの訴えとしてゲームに臨んだのが出発点であった。だが、自身が力を持つとその力を弱い者のために使えるのか。それはゲームの内的世界を飛び出して、現実の俺の行動基準としても難問である。

気付けば俺は悪人である。だが、それでも神は許してくださる。許しを与えてくれる都合のいい神様を疑う無神論者などいるものだろうか。