時間給という権利

権利と呼ぶか利権と呼ぶか、どちらでも元来は同じ意味であるが権利というと投票権や人権のような国から国民に与えられているもので、利権というと株の配当や家賃収入のような不労所得をイメージするかも知れない。しかし両方はもともと同じ権利という言葉である。

俺は金持ちの生まれであるが、爺さんの代から親父の代での相続税を親父が払い、相続でこんなに持っていかれるなら親父が死んで自分の代になる頃には働かないといけないかなと思っていて、子供の頃から店を継ぐのを諦めて会社員か何かになろうと思っていた。

現状、お金はまだまだある。20代に家を飛び出した最大の原因はお金の問題でなく家庭不和だから、家を出た話を権利の話しと結びつけるのは難しいが、家を出て借家に住むと毎月家賃を払うことになる。会社に勤めて給料をもらって、そこから自分のカネで食料を買い家賃を払って光熱費を払って、それでも最初はひとり暮らしが自由で楽しかった。

しかし段々と習った技術の陳腐化が進み、新しい技術の勉強をしながら働いていると会社の中にも新しい技術に興味を持つ側と既存技術を権利化しようとする側に分かれる。

やがて俺は病気をして、実家のない人なら死んでいるか浮浪者になるところだが、実家の親父が引き取ってくれた。それから住んでいたマンションを引き払い、実家から通勤で働ける場所を探して働いている。

幸い、俺の家には部屋がたくさんあるので、自分の部屋にテレビとパソコンを置き、親父とはテレビのチャンネルで喧嘩をしたりはしなくてよい。互いの時間をどう使うかにも干渉しないで生活している。7人家族の頃と比べると随分と自由だ。

そういう自由とお金の自由はまた少し違う。大阪に勤めていると千円持って街をぶらつけば色々なランチの誘惑があり、どれも美味しいものだ。だが店をしている方はどうだろう?昼の時間に押し寄せるサラリーマンの団体さんに食事を振る舞うために前日かその日の朝から仕込みをしたり市場に行ったりしながら、いざ昼の時間になると毎日何人足を運んでくるかは分からない。

その点、工場には食堂があり、決まった時間におおよそ同じ人数が食事に来る。しかしメニューは日替わりで選択制ではない。それでも俺はその程度は不自由とは思わない。会社が食事の用意を金銭的に半分くらい補ってくれるので、外食と同程度のメシを半額で食えるからだ。

仕事もお金もなかった人にとって会社員であることと賃金が時間給で保証されていることがその人にとって最大の権利なのである。投票に行かない人、プライベートのない会社人間という人はいても給料をもらわない人というのはいないのだ。投票権や人権より給料は大きな権利である。

結局の所、自由と権利は相反するものでなく、より大きな権利がその主体に自由をもたらすのである。現代ではその権利の多寡を競争にまかせるか政治介入で分配するかを投票で決めているのである。投票もまた数の大小を競っていること自体が問題の二重化を生んでいて、矛盾をはらんでいるのだ。

時間給という権利を剥奪されても自身で生活するだけの強さを備えた人間も理想のひとつではあるのだがな。