「さびしい」というのは健全な感情で

ヤンキー漫画と呼んで良いのかどうか「今日から俺は!!」の再放送を毎日見て。

殴り合いとか血が垂れた顔とかが「怖い」という感じがあんまりしないんですよね。

そして、ケンカは強くても集団で群れている愚連隊の心の奥は「さびしさ」だと思う。

この「さびしい」というのは人が集団で暮らさないと自然に負ける頃からの遺伝的な正常な感情だと思うんですけど、瞑想とかの精神修行で取り除くことは出来て。

だけど、感情を全部取り除いてしまったら、京アニの事件とか見ても涙も出ない自分がいて、冷静でいることよりも情動が正常で無くなったことに対する虚しさもあって。

そのへんのバランスが「今日から俺は!!」を見ていると取り戻せそうな気がした。

この今の無感情な状態は瞑想とかでなく、プログラマーとして無理な注文を受けてお金でご飯を買うことでしか生きられないと思い込んでいる自分が出来なきゃクビを突きつけられてメチャクチャな短期間でアタマをコンピュータみたいにしちゃったあたりから来ているんですよね。

 

それから、ブログを始めたすぐは感情的な文章が多かったんですけど、人目に晒した時に共感してくれた人はもちろんいたんですけど「非論理的だ」という批判が多くてそればかり気にしてしまったんですよね。

職業がプログラマーなので、記号論理学というか計算機論理のOR,AND,NOTで示される論理では自分は負けないと思っていたんですが、子供の頃から自然に体得したものや学校で習ったことなどが仕事のアウトプットとしての論理にはなっていても、自分の中で沸き起こる感情面を全て計算機論理に塗り替えるには至っていなかったというか。

そうしていると、やがて論理的の基準が金勘定の損得と同じ数字であるというところから結節して、家に来る牛乳配達のおばちゃんは愛想が良いがそれはスーパーの紙パックの牛乳より高くて日持ちの悪いものを売りつけるためである、みたいに世の中というか俺の住んでいるのが商店街で人の会話を始めとするコミュニケーション全般が全部カネのためという感じで映画マトリックスの主人公がバーチャル世界を全て0と1の信号として読み取るがごとく、お金の損得を1手深く読み溶けるようになったんです。

そうすると見えてきたのは周りの人がバカだと思っていた自分がバカで、自分が何故お金を持っているかはさておき、お金を持っていない人が自分のお金を少額ながら目当てにしてきているだけのように思えて人付き合いが嫌になり、反対にすべての人がお金のために動いているわけでなく、いままで関わらなかった人だけどお金以外の何らかの思想で動いている人にも関心が行くようになったんですね。

ただし、住んでいるのは相変わらず商店街なので、近所付き合いをしないでインターネットで遠方と交信して、引きこもって食費だけは利益を取られていても仕方なく買う、というふうになっているんですよ。

それでも、今までは親の真似事で自然にやっていたことで商売が回っていたので、親父が何を考えているかはわからないけど、あるいはもっと深く読むと親父のやっていることもそれなりの理屈があるんじゃないかと。新聞配達や牛乳は親父に習って意味は分からないけど取っています。

さらに、読めたと思った相手でもそのロジックを全て開示して窮地に追い込んだ所で損をさせるもののトドメは刺せないわけで、生き延びた相手から逆恨みを買うということがどれくらいの損なのか読みきれない以上は突き放すのは得策とも思えず。

それで最初の「さびしい」という話に戻ると、俺は昔は人と関わっていないと寂しいと思うタイプだったけど、関わる人が俺との人間関係を楽しんでいるのでなく何らかの利得のために寄ってきているのだと見え透けるとロボットを相手に返事が分かりきっている会話でさびしさを紛らわすように余計に寂しい、自分が人間だと思える人間を探すように変わってしまったんですよね。

そこまで来てから「今日から俺は!!」を見てみると、喧嘩シーンが痛快というような見方の他にあの愚連隊たちの人生の目的は何だろう、となって。世の中を理解するというか、社会に順応した人間からは服従しないと順応できない社会に対する反発とこう受け取られるのかも知れないけど、それはあきらめて順応した人間の視点であって、小説とかが面白いのは社会に順応できず自殺したような人間でも主観で何を考えていたのかをトレス出来るのが面白いんですよね。

まあ、だけど最近は文字の本を読まないので、テレビ見ながら「アイツら何なんだろうな」とちょっと思ってメシの時間やニュースの時間になるとそんな考え事は忘れちゃう。