利己的な人が信用出来ないかというとそうでもない話

精神病院を退院してからそろそろ10年くらい経つのだが、一度染み付いた人間不信から人を信用する基準を見直して、社会復帰する道をずっと探している。

こと、人間不信でも契約は履行されるのでカネを稼いでスーパーやコンビニでメシを買って生きていくことは出来る。工場で毒を入れられたりしない限り、そこらへんで売っているものは安心して食えるわけで、食糧生産の現場で働いている人や店員さんとかは暗黙的にというか盲目的に信用している。もっと病気のひどい人はメシすら拒むのかもしれない。

そうすると、現場の人が食で世の中を良くしようとかいう大義を持っていなくても、日々暮らすために安心して食べられる食料を生産してそれが一定量買ってもらえるというルーティンに安心して暮らしているというだけで、充分に信用できるのだ。

ではどんな人間が信用できなくて人間不信になったかというと、永島とか井上みたいなやつのことなのだが、俺がミヤザワでも世の中には無数のミヤザワさんがいるわけだし永島とか井上が全部悪い人ではないだろうから、ブログでその人のことを知らない人に俺が誰をどう信じてどう裏切られたかをその信用するというか甘えるに至った背景から説明するのは面倒すぎる。だいたい、彼らは世の中から信用されていない奴だったのだが、俺は世の中に信じられない人などいないというような独特の世界観で生きていたので、その無防備さとか底なしの自信の無さからくる他者依存性が奇跡を生んでいたのだけど、俺がちょっとプログラムの勉強とか頑張って、なまじっかお金と地位を持ち始めたことから世界は破綻しだしたんだ。

もうひとり、信用出来ないというと池側である。池側は俺が奇跡的に他者依存で回っていた頃に「なぜ回っているか」をおおよそ見抜いて、仕事を変えて立場が変わった俺に対して昔の俺と同じ役割を担って成り代わりを目論んだ人物であり、その作戦は成功していた。池田なんかもそうである。つまり、誰でも出来る仕事だから代わりができて干されたと言ってもいいだろう。

俺が危機に瀕したのは、動くお金が大きくなってきたからで、ゲーセンで100円玉でジャラジャラ遊ぶだけのカネだけ取ってみても、それを自分のものに出来たらと考える人はたくさんいる。そのための仕事として、より面白いゲームを作って市場に出すというような仕事をしているメーカーの人間はまだ信用できる。だが、面白いゲームを作ることでなく、もっと手っ取り早く儲からないかとゲームの面白さではなく策を講じるタイプの人間は信用できない。

反対に、和歌山の田舎でゲームをしていて大阪までたまに遠征する、たまには和歌山に遊びに来て欲しいというような人間はそれが三国志で自国の文明度を上げるために交易しているから利害でいうと彼らの利になるように計らっているのだが、それは損得抜きでという意味でなく、分かりやすい損得勘定で甘えとか懐柔によって利を得るという読み切れる作戦なので、何を考えているかわからない怖さのようなものがなく、信用できる。

反対に俺のことを利用するという意味で俺の何を信用して近づいてきたのかということを考えると、真摯にゲームの技術向上に向き合うという点を理解している人が、自分で攻略するより俺に試したほうが手っ取り早いと考えたからだと俺は思っている。くだらないことだが、俺とやって手を覚えて他の弱いやつ相手にそれでやっつければ100円玉が儲かるという算段だ。

それは俺がウェブで攻略記事を載せ始めて、格闘ゲーム業界の有名人になりかかったところで破綻した。強い人とやって手を覚えて弱いやつを負かすより、自分でウェブにセルフプロモーションを展開して有名人に成り上がるほうが美味しそうとか、俺がちやほやされだしたのに妬いてしまったとか、そういう安易な理由でも人から裏切られる。

どこで俺が俺自身の信用を無くしたかも冷静に考えると簡単だ。ゲームで強くなるためにお金に糸目はつけないでいた頃と比べて、自分が持っている膨大な情報を誰かに与えてしまうことに対して無防備であったことに気づき、ゲームに金勘定をするようになったからだろう。ただ、利用されている。情報は俺が出しているのに無料でもらったやつが情弱相手に有料で売っている、などということに気付きだして、もっと資金力を生かしてカプコンの株を買うとか、ナイスな方法は無いかと画策しだしたから、日銭の釣り銭を握りしめてゲーセンで遊ぶ遊び仲間から敬遠され、それが何となくこの人がいれば人が集まるという性質を無くし、負けてくれないケチな人として嫌われだす。

そういう風に嫌われることで寂しくはなったが、小銭は貯まるようになり、家でプレステで格闘ゲームを遊ぶようになってから三軒となりのミヤザワさん、つまり親戚のおばあちゃんが煎餅などを買って持ってきてくれるようになった。その値段がだいたい俺がゲームをしてスタートボタンを押した回数に100円を掛けたものと同額程度なのである。

だんだんと家でのゲームに物足りなさを感じるようになり、自然とやめてしまった。

ゲームをゲーセンで遊ぶことも楽しい楽しくないが刹那的なものでなく「100円をもっと他のことに使うため取っておきたい」という勘定が先にくる。貯めたとしても少額なのであるが、マンガの週刊誌を取ってみたりもしてみた。

漫画本もはじめは面白いのだが、マンネリ展開や締切落としに乱雑な作画の回がある。毎週定期的に面白いということはないなぁと思う。まあ、漫画家の立場になったら売れ行きが良くなってカネばっかり押し付けられても面白いものを描き続けるのがラクなはずもなく。俺だってカネを押し付けられてゲームをさせられるようになるとキツい。

だが、そのキツさに向き合うこと、真摯に強くなることを第一義とすること、そこらへんを見直していけば、誰からもとは言わないが、少なくともゲームに対して真面目な人同士での信用は回復できないだろうかと思う。ただの負けず嫌いやプライドで、負けたら必ずもう100円払ってコンティニューする。というようなお金の意味での信用というか性質ではなく、負けたら下がって考えて、より良い手を模索する。

その考えるプロセス自体が突き詰めるのでなく、俯瞰で三つ巴とか半丁博打で堂々巡りになるというところでもがいているのだが、ゲームを続けている人にこの苦悩を分かち合える人が見つからないのが残念ではある。

お相撲さんがケガで休場というテレビを何となく思い出しながら、駄文の括りにする。


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